2021年10月12日放送 - へ:平和の使徒 新島襄


上毛かるたには8人の人物が登場しますが、この『へ』は日本にキリスト教教育を広め、福沢諭吉らと共に『明治の六大教育家』の1人とされている新島襄を詠んだ札です。

 

 

新島襄は1843年に安中藩士の長男として生まれ、当時の名前は『七五三太(しめた)』でした。

幼い頃から外国に興味を持っていた七五三太は21歳の時、当時幕府によって海外渡航が禁止されていた中、函館港に停泊していた外国船に隠れて乗り込み出国。アメリカへ渡る事に成功します。

そしてこの船の中で『ジョー』というあだ名で呼ばれたことから、後にそれを漢字に置き換えて改名したのです。

 

 

9年のアメリカ生活で襄は名門校であるアマースト大学で理学士を取得し卒業。当時日本に大学はなかったので、これが日本人で初めて大学で学士号を取った人物という事になります。

そして江戸から明治へ時代が変わった後の1874年。襄の密出国の罪は明治政府によって許されることになり日本への帰国を決意。日本の将来の為にキリスト教の精神を持つ人材を育てたいと考えた襄は京都に同志社大学の前身である『同志社英学校』を設立、またその後安中に帰郷して『安中教会』を設立し、キリスト教教育の普及に務めた訳です。

 

 

さて、実は上毛かるたに詠まれている他の人物の中で、新島襄と繋がりがあったとされる人がいます。それは誰なのか、皆さんはご存知でしょうか?

それは襄と同じキリスト教の伝道師である『心の燈台 内村鑑三』です。

 

 

この2人、いつ頃知り合ったのかは定かでないのですが、1883年に東京で開かれた『全国キリスト教信徒大親睦会』という会合の記念写真の中で、新島襄と内村鑑三が並んで写っています。この時新島襄は40歳、内村鑑三は22歳。
これが最初で最後の2人のツーショット写真なのです。

 

 

 

 

  

そしてその翌年、アメリカを訪問中だった襄のもとに内村鑑三が訪ねてきます。
実は当時鑑三は東京で結婚生活を送っていたのですが、それが半年で破綻。精神的なショックを癒す為にアメリカに渡ったのです。

その時、襄は鑑三に自分の母校であるアマースト大学への入学を勧めます。その結果、鑑三は襄と同じようにキリスト教伝道師の道を行く事になる訳です。

 

 

ちなみにちょうどその頃、鑑三が日本に残してきた元妻には女の子が生まれ、当時鑑三の元には復縁を求める手紙が送られてきました。その為襄は鑑三にヨリを戻した方がよいと説得したのですが、こちらはどうやらきっぱり断られたそうです。色々難しいですね()

 

 

何はともあれ、もし新島襄がいなければ『心の燈台 内村鑑三』は誕生していなかったのかもしれません。キリスト教の教えを日本に広めた偉大な二人が上毛かるたには詠み込まれています。

 

 

2021年10月12日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊