2021年9月28日放送 - ひ:白衣観音慈悲の御手


高崎の観音山の頂上にある高さ41.8mの『高崎白衣大観音像』。

高崎市のシンボルとなっているこの観音像は、1936年に高崎の実業家である井上保三郎(やすさぶろう)が私財を投じて建設したものです。

 

観音山というと、個人的には小さい頃にカッパピアに遊びに連れて行ってもらったり、高校時代は部活でこの山を毎日走らされたりしていたので色々と思い出があります。

同じような思い出のある方も多いと思いますが、この『ひ』の札はその高崎の観音様を詠んだ札です。

 

 

さて、ではなぜ井上保三郎はあれほど大きな観音様を建てようと思ったのか?皆さんはご存知でしょうか。これは彼が抱いていた『高崎愛』が作り上げたと言っても過言ではありません。

 

そもそも保三郎は高崎線が開通した19世紀後半、東京で仕入れた海産物を長野方面に行って売るという流通業で成功を収めていました。

しかしその後、高崎に近代社会の基盤を作りたいという思いで建設業に方向転換。剣崎浄水場や高崎公園、高崎公会堂といった市の重要施設の建設に携わり、昭和に入っても高崎駅前の道路のアスファルト舗装や橋の建設などを行っていったのです。

 

そして1934年。当時高崎には大日本帝国軍の陸軍第15連隊が駐屯していたのですが、彼らが日露戦争時代に多大な犠牲を負った事から、その御霊を供養する場を作りたいと考えます。これが観音様建設の目的です。

 

更に当時既に高崎駅は複数の路線が停車する要衝だったので、駅から見える山の上にこの大きな観音像を建てれば『あれは何だ!』と乗客の目を引き、汽車を降りて市内に流れる人が増えるのではと考えました。

 

要するに、国の為に命を負った兵隊の供養と、高崎の観光業発展の双方を目的としたのが、この『高崎白衣大観音』なのです。

 

 

またこの『観音山』という山の名前、これは白衣観音を建てたから『観音山』という名前が付いたと思っていませんか?実はそれは大きな間違いです。この山は白衣観音像ができるかなり前から『観音山』という名前だったのです。

 

 

この山の麓に、平安時代に建立された清水寺というお寺が今もあるのですが、これは当時征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、蝦夷(えみし)征伐で亡くなった兵士の霊を慰める為、808年に京都の清水寺から千手観音像の分霊を迎えて建てたものです。

これが『観音山』と呼ばれるようになったそもそもの由来なのです。

 

戦中、戦後の群馬県民の苦難を見つめてきた観音様に対して、『今後の日本の将来を背負う子供たちに慈悲の手を差し伸べて見守ってください』という願いがこの札には込められています。

もうすぐ紅葉の季節がやってきます。そんな思いを嚙み締めながら観音山を登ってみて下さい。