下仁田は妙義山や荒船山などの山に囲まれ、水はけのよい土地柄であることから、古くよりねぎとこんにゃくが作られてきました。この札はその下仁田が全国に誇る名産、ねぎとこんにゃくを詠んだ札です。
今では国内で生産されるこんにゃくの9割以上が下仁田産であり、また下仁田ねぎは独特の甘みがあって多くの日本人に好まれています。
群馬の方であればご存知かもしれませんが、他の農産物に比べてこんにゃく栽培は非常にデリケートです。
栽培には日差しの強くない所が適しているのですが、気温が低すぎると病気になってしまい、また雨は多い方が良いものの、水はけが悪いと腐ってしまいます。
その点、下仁田は山間部なので日照時間が適度に短く、とはいえ気温も低すぎず、また山の斜面の水はけがよいので、こんにゃく栽培には打ってつけの場所だったのです。
また、一方の下仁田ねぎ。
江戸時代には高崎藩の殿様が将軍や諸大名への贈り物としていた事から通称『殿様ねぎ』と呼ばれ、一般庶民はなかなか手に入れる事ができませんでした。
また昭和に入ってもお店に並ぶことはほとんどなかったと聞いています。
それを裏付けるようなエピソードが、実は『ね』の絵札に隠されています。
もし今、お手元に『ね』の絵札があったら、じ~っと眺めてみて下さい。よ~く見て下さい。『・・・あれ、変だな?』と感じるところはないでしょうか?
絵札にはねぎとこんにゃくが描かれていますが、このねぎ、皆さんがよく知っている太くて短い下仁田ねぎと違い、細くて長いような気がしませんか?
実はここに描かれている葱は下仁田ねぎではなく『深谷ねぎ』であるという説があるのです。
そもそも上毛かるたの絵札は、戦後に前橋工業高校の美術教師をしていた小見辰男先生が描きました。しかし当時小見先生であっても下仁田ねぎを見たり口にしたりすることはなかったそうで、高級料亭などでしか食べることのできない品物でした。
その為、写真を参考に絵を描いたのですが、その写真が実は『深谷ねぎ』だったのではないか?という事なのです。
この説は上毛かるたの生みの親である浦野匡彦先生の娘:西片恭子さんが書いた『上毛かるたのこころ』という本でも触れており、”私も下仁田ねぎをこの目で確かめたのは、日本に飽食の時代が到来した昭和50年代に入ってからだった。”と記されています。
あくまで説なので、これが本当なのかどうかは分かりません。ただ、それだけ当時の下仁田ねぎは限られた人しか食べられなかったのです。
今ではスーパーに行けば、下仁田こんにゃくはもちろん、下仁田ねぎも手に入れる事ができます。
もう夏も終わりです。あと数か月すると、下仁田ねぎとこんにゃくで作る鍋のシーズンがやってきます。