高崎のシンボルと言っても過言ではない、観音山の頂上に立つ『高崎白衣大観音像』。
1936年に井上工業の社長をしていた井上保三郎(やすさぶろう)が私財を投じて建設したものです。
その目的は日露戦争で多くの戦死者を出した高崎の陸軍第15連隊の慰霊供養なのですが、それと同時に高崎を観光都市として発展させる為の目玉となるモノを創りたいという想いがありました。
その為、まず保三郎は伊勢崎出身の工芸家:森村酉三(もりむらとりぞう)に観音像のデザインを依頼。
当時森村さんは池袋にアトリエを構えており、ここで100分の1スケールの観音像の原型を制作します。
本人曰く、明治・大正・昭和の美人の顔が観音様の顔に織り込んであり、また参拝者と観音様の目が見つめ合うよう顔を少し下向きにしたことがポイントだそうです。
そして出来上がった原型をアトリエから当時日本橋にあった井上工業東京支店まで運ぶのですが、これを運んだ人物がとても意外な方なのです。それは誰なのか皆さんはご存知でしょうか?
正解はまだ井上工業に入社して間もなかった、のちの内閣総理大臣:田中角栄。
角栄さんは新潟の高等小学校を卒業後に上京し、神田にあった中央工学校というところで土木の勉強をしながら、井上工業の東京支店に住み込みで働いていました。
その時会社からの命令で、観音様の原型を布団にくるんで自転車の荷台にくくりつけ日本橋まで運んだそうなのです。
この話は当時井上工業にいた横田忠一郎(ただいちろう)さんが談話の中で、
『たまたま高崎の本社から東京支店に出張して打合せをしていた時、暗くなった工事現場から帰ってきた青年がいた。彼は早々に夕飯をかき込み、数冊の本を小脇に抱えて「今から夜学に行ってまいります。」と言って出て行った。
今どきの若い者にしては感心なものだと思ったが、この青年が後に将来の日本を背負う総理大臣になるとは夢にも思っていなかった。』
と語っています。当時の角栄さんはとても勤勉な人物だったのです。
しかしいくら勤勉とはいえ、社運をかけた観音像の原型を本当に見習社員に運ばせたのか?とこの話を懐疑的に見る方もいらっしゃいます。実際、角栄さんは井上工業で働いていたのは本当なのですが、『観音像の原型を自転車で運んだ』と話しているのは角栄さん本人のみであり、他の方は誰も覚えていないのです。
もしかしたら県内での遊説中にリップサービスとして少し話を盛った?のかもしれません。
その真偽は分かりませんが、観音様を建設した当時の井上工業に角栄さんがいたのは事実。総理になって地元新潟に帰る際、新幹線の中で高崎の観音様を眺めていたのかもしれません。
2022年10月11日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊