2022年11月1日放送 - へ:平和の使徒 新島襄


日本にキリスト教教育を広め、福沢諭吉らと共に『明治の六大教育家』の1人として讃えられている新島襄。

 

1843年に安中藩士の長男として生まれ、まだ海外への渡航が認められていない中、21歳の時に密出国でアメリカに渡り、帰国後は日本の将来の為にキリスト教の精神を持つ人材を育てたいという想いのもと、京都に同志社大学の前身である『同志社英学校』を設立しました。

 

 

この新島襄の功績については皆さんもある程度ご存知ではないかと思うのですが、今回注目したいのは『平和の使徒(つかい)』という言葉。もちろん新島襄自身は戦争に賛成していた訳ではありませんが、表立って反戦運動をしていた訳でもありません。

ではなぜ新島襄が『平和の使徒』なのか、皆さんはご存知でしょうか?

 

 

実はこれを説明する為にはある人物を紹介する必要があります。

その人物とは、安中市出身の牧師であった『須田清基(すだせいき)』さん。

 

 

 

 

このコーナーでも何度か紹介しているように、上毛かるたの生みの親と言われているのはのちに二松学舎大学の学長となる浦野匡彦先生ですが、須田さんは当時群馬の子供達が戦後の混乱に負けず希望を持って成長していく為、浦野先生に上毛かるたの制作を提案・協力した人物なのです。

 

 

また須田さんはご自身の著書の中で、新島襄の事を詳しく書いています。

それを要約すると、

 

 

新島襄はアメリカから帰国して安中市内で布教活動を開始し、その後群馬県内にどんどん拡大していきました。

その結果、まだ女性教育があまり広まっていなかった日本において県内にいち早く『共愛女学校』を創立する者がいたり、またそれ以外にも上毛孤児院や前橋養老院、私立盲学校などを設立する者がいたりと、新島襄の教えを受けて、弱い立場の人に寄り添った社会の実現に向けて活動を起こす人が群馬県内から次々と誕生したのです。

 

そして須田さんは著書の中で、この方々の事を『平和愛好の聖徒(せいと)』と呼んできます。

 

 

 

このように様々なハンデを背負っても人間らしい生活を送れるような平和社会を創ろうとした弟子達を数多く輩出した功績を讃えて、新島襄を『平和の使徒(しと)』と表現し、子供達にも分かりやすくする為に『使徒』を”つかい”と読ませたのではと思うのです。

 

 

ちなみに『へ』の札以外に、同じキリスト教徒である『心の燈台 内村鑑三』の読み札を作ったのも須田さんです。

内村鑑三は反戦への意識が非常に高かった人物なので、この人こそ『平和の使徒』なのではと思うのですが、なぜ内村鑑三を『心の燈台』と表現したのか?

 

それはまた別の機会にお話します。

 

 

 

2022年11月1日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊