太田市にある生品神社。
とても静かな場所にある神社ですが、今から約700年前の1333年、この場所には鎌倉幕府を倒す為に立ち上がった兵が集まっていました。
そしてそれを率いたのが地元の豪族である新田義貞。
当時政権を握っていた北条氏は完全に信頼を失っており、後醍醐天皇は、天皇中心の政治を再び創ろうと武士たちに倒幕の命令を下します。
その時義貞は、幕府と天皇のどちらを選ぶかをとても悩んだそうなのですが、最終的には天皇の命を受けて鎌倉への出陣を決意するのです。
生品神社で挙兵した際の兵の数はわずか150騎でした。しかしその後、鎌倉へ南下する道中で次々と味方が加わっていき、鎌倉へ到着した時には5万の兵の勢力になっていたと言われています。
この札は、その多くの兵を率いて鎌倉幕府を倒した人物:新田義貞を詠んだ札です。
さて以前からこのコーナーでお話している通り、上毛かるたの中には制作者の思い入れの強い札がいくつかあります。実は、この『れ』の絵札もその1つです。
と言うのも、先日『ら』の札を紹介した際に『県民から札への採用を熱望されていたものの、GHQの検閲で却下され、採用を断念した人物がいる』ことをお話ししました。
それが国定忠治や高山彦九郎だった訳ですが、実はこの新田義貞も、もしかしたら断念していたかもしれない人物なのです。
その理由は新田義貞がサムライであったこと。
当時GHQは、日本から軍国主義の思想を排除することを狙っていた訳ですが、彼らから見ればサムライという荒々しい存在がそれに悪影響を与えるのではないかと考えていたからです。
しかしこれには、上毛かるたの制作者である浦野匡彦(うらのまさひこ)先生が強く反発。
『日本のサムライを否定する事は、アメリカで独立戦争の兵士たちを否定するのと同じ事だ。』
とGHQへ言い放ち、さらに、
『新田義貞が多くの兵を率いて勝利した事は、この男の正義感と指導力があったからである。多数決の民主主義のルールを守って見せる事も、GHQが県民へ示すべき精神ではないか。』
と交渉し、見事、札への掲載を認めさせたのです。
この結果には、当時札の原画を担当した小見辰男(おみたつお)先生も大変喜んだと言われています。
その為、札には義貞が鎌倉攻めをする際の伝説として言い伝えられている稲村ケ崎での勇ましい様子を描いた訳です。
この稲村ケ崎での出来事は歴史ファンであればよくご存知かと思います。
実は新田義貞の鎌倉攻めはドラマとして取り上げてもいいのではと思うくらい面白いのです。でも、これを話すとかなり長くなるので、次回『れ』の札を紹介する時まで取っておこうと思います。皆様も興味がありましたら是非歴史の本を探ってみて下さい。
2022年2月15日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊