2022年2月22日放送 - ろ:老農船津傳次平


 『老農』とは、明治時代に農業技術の改良や普及につとめた優れた指導者を指す言葉。

この『ろ』の札は、当時日本の三大老農の1人と呼ばれていた富士見村出身の船津傳次平を詠んだ札です。

 

 

さて、早速ですが皆さんに質問です。

この船津傳次平、名前は当然知っているとしても、実際に何をした人なのかを皆さんはご存知でしょうか?

実際、上毛かるたには8人の人物が描かれているのですが、札の暗唱はできたとしてもその人の功績まで説明できる人は少ないのではないでしょうか。

 

 

 その為、本来ならばこのコーナーで傳次平の功績を1つ1つ紹介していきます・・・と言いたいのですが、実はそれはできません。

 

なぜならば、船津傳次平の功績はあまりに多すぎて、とてもこの短時間では紹介し切れないのです。おそらくこの方がいなかったら、日本の農業は沈没していたかも・・・と言っても過言ではないくらいの偉大な指導者なのです。

 

 

その数ある功績の中で敢えて1つ挙げるとすれば、傳次平を一躍有名にした1872年のできごと。

この年、日本は国民の生活の根幹を揺るがすような決定をします。それは”暦の変更”です。

 

 

1872年11月、当時日本政府はいきなり「来月12月から今まで使っていた太陰暦から太陽暦に変更する」という発表をします。

 

太陰暦とは月の満ち欠けを基準にした暦であり、当時はこれが日本人の生活の基準になっていました。しかし海外では太陽暦が広く使われていた為、国際貿易を進めていく為には日本もこれに合わせる必要があったのです。

 

 

この変更について『急にそんなこと言われても!』と混乱したのが農業。先祖代々、太陰暦に基づいて作物を育ててきた農家たちは当然太陽暦に馴染めず、全国で大混乱になったと言われています。

 

 

しかし、これにいち早く対応したのが傳次平。

 

傳次平は当時独学で太陽暦を学び、どの時期に何をすべきかを分かりやすくまとめた『太陽暦耕作一覧』という農家のマニュアルを作成します。

 

 

そして、当時の”熊谷県”の県知事にあたる役職をしていた楫取素彦(かとりもとひこ)にこれを献上。

 

素彦はこのマニュアルの分かりやすさに深く感動し、県庁の予算で大量に印刷して県内の農民たちに無料配布しました。その結果、熊谷県は他の県に比べ混乱を最小限に抑える事ができたと言われています。

 

 

この功績が政府に認められ、傳次平は現在の東京大学農学部の前身である駒場農学校の教師に就任。日本全国の農業研究家を育てる立場になっていく訳です

 

 

それ以外にも本当に様々な功績を残している船津傳次平。皆さんが国産の野菜を普通に食べているのも、実は傳次平のおかげかもしれません。

 

 

2022年2月22

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

  

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊