2022年9月6日放送 - に:日本で最初の富岡製糸


 明治初期の日本の近代化、そして絹産業の技術革新に多大なる貢献をした『富岡製糸場』。

1872年の開業当時の建物がそのままの状態で残っており、2014年には『富岡製糸場と絹産業遺産群』の構成資産として世界遺産に登録されました。

これについては皆さんの記憶にも新しいことと思います。

 

 

さてこの富岡製糸場、もともとは政府が運営する『官営』の施設として創業しましたが、当時雇っていた外国人の技術者が全員帰国すると、次第に富岡の生糸の品質低下が指摘されるようになります。

 

 

その為、質の高い生糸をより効率的に作る為に高まっていったのが『民営化』構想。

1891年に初めて政府から民間へ払い下げる為の入札が行われ、複数の企業がその入札に参加しました。

残念ながらどこの入札額も政府の予定金額に及ばず不成立となってしまうのですが、しかしここに富岡製糸場の将来に大きな影響を及ぼすある人物が参加していました。その人の名は『片倉兼太郎(かたくらかねたろう)』。

 

 

 

おそらく富岡の方であれば、『片倉』という名前を聞くだけでピンと来るかもしれませんが、のちに日本の繊維業界を牽引する存在となる『片倉工業』の創設者です。

 

 

もともと片倉工業は富岡製糸場ができた翌年の1873年に長野県で創業しました。

しかし初代社長であった兼太郎は、当時富岡製糸場が持っていた超先進的な技術と設備に驚きと強い憧れを抱いていたと言われており、何とかして富岡製糸場の経営を自分の手で行いたいと考えた訳です。

 

 

とはいえその夢は叶わず1917年にこの世を去ってしまうのですが、その22年後の1939年、既に日本最大の繊維会社となっていた片倉工業は製糸場と合併し、『片倉富岡製糸所』として経営を開始します。

 

その後戦争によって一度は手放すものの、1946年には再び経営権を取り戻して再スタート。

1987年の操業停止までずっと運営をしてきた訳です。

 

 

しかし、何より素晴らしいのはその操業停止後のこと。

工場としての役割は終わったものの、片倉工業はこの富岡製糸場について『売らない、貸さない、壊さない』の方針を打ち出し、その後ずっと建物の維持管理に専念します。

 

1年間維持するだけで1億円以上の管理コストかかったと言われているのですが、片倉工業はそのコストを抑えようとはせず、逆に壊れかけている部分は当時の工法で復元することにこだわりました。

この取り組みがあったからこそ、富岡製糸場が世界遺産に登録されるほどの良好な保存状態で残された訳です。

 

 

あのきれいなレンガ造りが当時のまま見られるのは保存活動を続けてきた片倉工業の情熱のおかげです。是非そのことを頭に入れて、また製糸場を訪れてみて下さい。

 

2022年9月8日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊