日本の文学界において自然主義文学をけん引した田山花袋。
明治4年に現在の館林市に生まれ、18歳の時に尾崎紅葉に弟子入り。その後、小説家としてデビューした後は「蒲団」や「田舎教師」などの名作を発表し、生涯を通じて多くの作品を発表し続けました。
また私生活に目を向けると、決して友人が多かった訳ではないようですが、同じ文学界で活躍した柳田国男や国木田独歩などとは若い頃から交流を深めていました。
そして、田山花袋の大親友と言っていいほど仲の良かったのが、お隣の長野県出身であり、同い年でもあった『島崎藤村』。
2人は24歳の頃に出会い、同じ文学を志す者としてライバル関係であった訳ですが、一方で生涯に渡ってたくさんの手紙が交わされていたことも分かっており、館林にある田山花袋記念館には藤村と交わした93通もの手紙が現在も保管されているそうです。
しかし当時、先に世間から高い評価を得たのは島崎藤村でした。
明治39年、当時社会問題となっていた部落差別を題材とした島崎藤村の小説『破戒』は、あの夏目漱石も「後世に残る名作」と絶賛した程でした。
その為、花袋としては自分だけが取り残されていく感覚に陥ったそうですが、その焦りの中で生まれた作品が、花袋の代表作となった『蒲団』。
既に中年男性だった花袋自身が若い女性に恋心を抱いた後にフラれるという、自分のことを赤裸々に描いた小説は当時の文学界にとんでもない衝撃を与えました。まさにこれは島崎藤村の活躍があったからこそ生まれた名作なのです。
更に2人が本当に仲の良かったことを証明する有名なエピソードがもう1つ。
田山花袋は晩年、脳出血と末期の咽頭がんを患って入院を余儀なくされるのですが、その際、藤村はその病院へとお見舞いに訪れます。そして花袋は『もう自分は死を覚悟しなければならない。時間の問題だ。』と生きることに弱音を吐くのですが、それに対して藤村はあろうことか、
『この世を去って逝くというのはどんな気分?』
と尋ねたのだそうです。
今だったら『末期がんの人に対して何て言い草だ!』と大炎上してもおかしくないのですが、それに対して花袋は淡々と、
『誰も知らない暗いところへ行くのだから、なかなか単純な気持ちではないよ』と答えたのです。
2人の間にお互いへの理解と尊敬があったからこそ成り立つ会話。
今でも文学愛好家の間では、田山花袋と島崎藤村の関係は長い日本文学史の中で一番だったと語り継がれています。そして彼らの友情は、おのおのの作品に影響を及ぼし、後世の作家たちにも重要な遺産となっているのです。
2023年11月14日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊