2023年12月12日放送 - む:昔を語る多胡の古碑


 

 

 2017年にユネスコの『世界の記憶』に登録された上野三碑。

 

これは高崎市の吉井町周辺に現存する飛鳥時代から奈良時代の頃に作られた石碑であり、多胡碑、山上(やまのうえ)碑、金井沢碑の3つ碑のことを指します。

またこの時代に作られた石碑は国内にわずか18例しか残っていないのですが、その中の3つがとても近い距離に集中しており、また保存状態も良い事から当時の様子を知る貴重な資料として大切に守られてきました。

 

 

そして前回、前々回と多胡碑について色々お話してきましたが、今回はその上野三碑の1つである『山上碑』にスポットを当てたいと思います。

 

出典:高崎市 https://www.city.takasaki.gunma.jp/kankou/history/yamanoue.html

 

 

この山上碑は西暦681年に建てられたものです。多胡碑が711年、金井沢碑が726年に建てられているので、上野三碑の中で最も古く、完全な形で残っている石碑としては日本最古のものになります。

 

 

また碑文には、放光寺(ほうこうじ)というお寺の長利(ちょうり)というお坊さんが母のために石碑を建てたこと、そしてその長利の母方と父方の系譜が刻まれています。

更に、前橋市の総社町にある山王廃寺(さんのうはいじ)から『放光寺』という文字が刻まれた瓦が出土していることから、この長利がいた放光寺は山王廃寺のことではないかと言われており、またこの碑の隣には長利の母のお墓と推定される古墳があります。

その為、長利は母を供養するとともに、お寺の僧侶でもある自分の存在を後世に伝える為にこの碑を建てたと考えられているのです。

 

 

そして何よりも私が一番興味深いのは、この碑は漢文で書かれているものの、日本語の語順で読めるということ。

学生の頃、漢文はレ点や一二点といった『返り点』を使って読むのを習ったと思いますが、これは古代の中国語の文法で書かれた文章を日本語の語順で読めるようにと日本人が開発したものです。

 

漢字がいつ日本にやってきたのかは正確に分かっていないものの、5世紀の初め頃から国内で使われ始めたと言われています。

もちろんその頃の漢字は中国の文法に則って使われていたはずですが、その後日本独自の語順で書かれるようになり、9世紀頃になるとこれを崩して書く書体、いわゆる『ひらがな』が国内で使われるようになります。

この山上碑はまさにその日本独自の方法で漢字が使われるようになる途中段階を確認できるとても貴重な資料なのです。

 

 

ただこの山上碑、その名の通り山の上にありまして、碑にたどり着くにはとんでもなく長い階段を登って行く必要があります。私が行った時には階段の途中に休憩所があり、杖も用意されていたと記憶しています。でも登る価値は十分にありますので、まだ見た事のない方は是非訪れてみて下さい。

 

2023年12月12

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

  

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊