群馬・福島・栃木・新潟の4県にまたがる『尾瀬国立公園』。
日本の国立公園の中でも一番規制の厳しい『特別保護地区』に指定されている尾瀬は、この時期になるとミズバショウやニッコウキスゲなどが見頃となる本州最大の湿原です。
また現在は環境保護の観点から、湿原には全長約65kmの木道が整備されており、この木道以外の場所を歩くのは禁止となっています。
更に、同じく環境保護の為、尾瀬には自動車用道路が通っていません。その為、群馬~福島間の県境は地続きで接ししているのにも関わらず、自動車の往来する道路がない国内唯一の県境なのです。
しかし昔は人の行き来が盛んであり、この尾瀬沼には『会津沼田街道』と呼ばれる福島県の会津若松と群馬県の沼田を結ぶ道が通っていました。
この道は江戸時代初期に沼田城の初代城主である真田信幸が整備したもので、これによって会津と上州の双方から人や物資が往来するようになり、当時の人々の生活になくてはならない交易路として発展していったのです。
しかし幕末、この会津沼田街道が戦の舞台となり、大自然に恵まれた尾瀬一帯も一時は戦渦に巻き込まれそうになったことを皆さんはご存じでしょうか?
そのきっかけとなったのが『大政奉還』。
1867年、15代将軍徳川慶喜は政権を天皇へと返上した訳ですが、その後の徳川家の処遇が粗末であることを巡って幕府側が強く反発。そして新政府軍と旧幕府軍が京都の近くにある鳥羽・伏見で武力衝突を起こします。これがいわゆる『戊辰戦争』の始まりです。
結果としてこの鳥羽・伏見の戦いは新政府軍が勝ち、そのまま江戸へと進軍して幕府の本拠地であった江戸城を開城させる訳ですが、その後、新政府軍のターゲットとなったのが旧幕府軍の中心的存在であった会津藩。
その為、現在の福島県一帯が戦場となった訳ですが、この時、会津沼田街道から進軍する新政府軍を待ち受ける為、会津藩の武士約300人が尾瀬の湿原に駐留。その後上州側に下って行った片品村の戸倉で武力衝突が起こった訳です。
幸いにも尾瀬の湿原の中での戦にはならなかった為、貴重な大自然が荒らされることはなかったのですが、実はその会津軍が尾瀬に駐留した際、新政府軍の進軍に備える為に湿原の中に築いた土塁が今もまだひっそりと残っています。
夏は草木が生い茂っている為分かりにくいのですが、春や秋に訪れるとその土塁ははっきり確認できると聞いています。
雄大な大自然の中に取り残されたように存在する幕末の武士達が将来の日本の為に戦った跡。私もまだ自分の目で確認したことはないのですが、尾瀬に行く機会がありましたら是非よく見てみて下さい。
2023年7月18日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊