2024年7月16日放送 - そ:そろいの仕度で八木節音頭


群馬県民のソウルミュージックである『八木節』。

 

もともと栃木県足利市にあった宿場町:八木宿で生まれたのですが、のちに群馬と栃木の両方に広がっていき、現在ではソーラン節や安来節などと共に全国に知れ渡る民謡となっています。

また毎年8月最初の週末に開催される桐生八木節祭りは、3日間で60万人以上の来場者数を誇る県内最大級のイベントとして有名です。

 

 

そして明治時代にこの八木節を創作し、日本全国へと広めていったのが『初代;堀込源太(ほりごめげんた)』。

当時源太は八木宿で荷馬車を引く仕事をしていたのですが、いつも桶を叩いて歌を歌いながら馬車に乗っていました。

その歌声はとても綺麗だった為、近隣の盆踊り大会でもたびたび歌を披露することになるのですが、この時の歌が現在の八木節の原点となります。

 

 

その後、当時の最新技術であったレコードが日本にやってくると、源太も八木節をレコード化。各地のラジオ放送でそのレコードをたびたび流すようになり、堀込源太と八木節の名前が全国に知れ渡っていったのです。

 

 

更にその後、源太は当時の日本のエンターテインメントの聖地へと進出するのですが、それはどこか皆さんはご存じでしょうか?正解は『浅草六区』。

 

 

 

 

江戸時代から日本最大級の歓楽街として栄えていた浅草の浅草寺周辺は、1884年に行政上の理由で七つの区に分類されます。

その中でも六区と呼ばれた区画は、浅草オペラ発祥の劇場でもある常磐座(ときわざ)や日本初の映画館である電気館などがある浅草のメイン通りとして発展していきます。

 

そして国民的喜劇俳優となったエノケンをはじめ、松竹演芸場の浅香光代さん、更にお笑い界ではコント55号やツービートなど、浅草六区は常に時代のスターを生み出す聖地となったのです。

 

 

その浅草六区にあった萬盛館(ばんせいかん)という劇場に、源太は19185月に初登場し、八木節を披露します。

ただ残念ながら、この舞台のことについて詳しく記載されている資料は残っていません。

 

またこの浅草進出をきっかけに源太は更に活躍の場を広げていくはずだったのですが、この5年後の1923年、関東大震災によって東京は焼け野原となり、浅草六区も壊滅的な被害を受けます。

当時の資料は、この震災によってほとんどが燃えてしまった可能性が高いのです。

 

 

また源太自身も東京から足利に拠点を戻さざるを得ず、再度東京へ行くチャンスをうかがうもののその機会はなく、1943年にこの世を去ります。

しかし彼の死後も地元の方々に八木節は引き継がれ、現在では小学校の音楽の教科書に掲載されるほどの日本の代表的民謡に発展していったのです。

 

 

2024年7月16日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊