江戸時代中期に現在のみなかみ町に生まれた塩原太助。
貧しい農家の出身なのですが18歳でひとり江戸へと行って炭屋を開業し、江戸時代を代表する実業家となりました。
しかし成功を収めた後もその地位におごる事は無く、貧しい人や弱い立場の人の為に尽くしたり、また公共事業にも自分の財産を進んで提供したりしました。まさに世の為、人の為に自分の人生を捧げた人なのです。
そして今、”公共事業”という言葉を出しましたが、実際に当時、太助は様々な道路の整備や治水事業などに対して積極的に自分の財産を寄付しています。
代表的な事例としては榛名山の天神峠にある石灯籠。当時榛名神社へ上る峠道はとても暗く、これが建てられたことによって多くの参拝客から感謝されたと言われています。
またそれ以外にも江戸周辺の神社の灯籠や参道の整備にも貢献しているのですが、更には遠く離れた西日本の事業にも多額の寄付をしています。
その形跡が今でもはっきり残っているのが、香川県の丸亀港にある『太助灯籠』。皆さん、ご存じでしょうか?
この灯籠は、1833年に作られた『新堀湛甫(しんぼりたんぽ)』という船着き場に建てられています。
江戸時代は基本的に一般庶民の旅行が禁じられていたものの、神社仏閣への信仰を目的とする旅は許されていました。
その為、江戸の人々の間では伊勢神宮へ行く『お伊勢参り』が大流行していたのですが、「お伊勢参りの次はこんぴら詣」という言葉も流行ったそうで、ついでに讃岐の金刀比羅宮(ことひらぐう)、通称:こんぴらさんに行く参拝客も大勢いたのです。
しかし伊勢神宮には歩いて行けるものの、当然讃岐の”こんぴらさん”には瀬戸内海を越えなければなりません。
参拝客は船に乗って新堀湛甫を目指すのですが、無線もGPSもない時代に船から港の位置を見つけるのは至難の業。
また夕暮れになると瀬戸内海は真っ暗になって更に港がどこにあるのか分からなくなってしまいます。
その為、港を見つける際の目印として灯籠の建立が計画されたのです。
そしてこの灯籠を建てる際、1357人という多くの人が自分の財産を寄付したのですが、その中で一番多い金額:80両を寄付したのが塩原太助。
その為、筆頭寄進者である太助の名前を取って、現在でも『太助灯籠』と呼ばれているのです。
ちなみに当時は合計3基の灯籠が建てられたそうなのですが、第二次大戦中、武器を生産する金属の不足を補う為、残念ながら2基は回収されてしまいました。
しかし現在残っている1基は今でも夜になると煌々と灯りをともし、現役バリバリで丸亀港を見守っています。
2023年9月19日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊