『下仁田街道』の宿場町として栄えた下仁田町。
下仁田街道とはいわゆる中仙道の脇道であり、埼玉県の本庄宿から分岐して藤岡宿や富岡宿を通り、信濃へと抜けるルートを指します。
本街道と比べると難所が少なく女性が通行しやすかったことから、別名『上州姫街道』とも言われました。
また下仁田は妙義山や荒船山などに囲まれて水はけのよい土地であることから、古くよりねぎとこんにゃくが作られてきました。
今では国内で生産されるこんにゃくの9割以上が下仁田産であり、また下仁田ねぎは独特の甘みがあって多くの日本人に好まれています。
ただ第二次大戦中、こんにゃくに関しては大変悲しい出来事がありました。
実はこのこんにゃくが軍事兵器を作る材料として大量に使われ、一時日本の食卓から消えたのです。
その軍事兵器とは『風船爆弾』。皆さんはこの事をご存じでしょうか?
風船爆弾とは直径10mの大きな風船に爆弾をつるし、それを偏西風にのせてアメリカ大陸まで飛ばすというもの。
かなり原始的な作戦ですが、当時国内で約9000個が生産され、1944年11月から1945年3月にかけて、アメリカに向けて放たれました。
そして、その風船の材料となったのが和紙とこんにゃく糊。
ご存じの方もいると思いますが、和紙と和紙との接着にはこんにゃく糊が適しており、きちんと貼り合わせるとゴム風船よりも水素を通しにくい構造になります。
その為、この風船を大量生産する為に下仁田はもちろん、他の栽培地からもこんにゃく芋がかき集められ、糊が大量に作られたのです。
また放たれた9000個のうち、アメリカ大陸に到達した数は推定1000個。
その結果、オレゴン州で1人の女性と5人の子どもがこの風船爆弾によって死亡しました。
これが第二次大戦中にアメリカ本土で日本の攻撃を受けた唯一の犠牲者となったのです。
しかしこの被害については、当時アメリカ国内で全く報道されませんでした。
日本軍に作戦は失敗したと思わせる為、敢えてアメリカ軍が報道規制を敷いたのです。
また日本軍も作戦がばれてしまうと工場などが攻撃対象となってしまう為、爆弾を放ったことを公にすることはなく、戦争が終結してから詳しいことが分かるようになったと言います。
またこのこんにゃく糊で和紙を貼り合わせる作業をしたのは、学徒動員で招集された女学生たち。
当時自分達がどんな兵器を作っているのかも知らされず、ただひたすら和紙を貼り合わせていました。
更に、その爆弾でアメリカ人に死者が出たことを彼女たちが知ったのは、なんと終戦から20年も経った後。
それを知った時に何を思ったのか・・・言葉に詰まってしまいます。
2023年9月26日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊