昔から群馬県民は『義理人情に厚い』と言われてきました。
この義理人情とは、『人に対してやらなければならない思いやり』のこと。そしてこの札は群馬県民の義理人情と、群馬の気象である雷と空っ風を詠んだ札です。
さて以前もお話しましたが、この『ら』の札は上毛かるたを語る上で非常に重要な札です。
このかるたが制作された1947年、当時県民から『高山彦九郎』や『国定忠治』など群馬を代表する偉人を札にして欲しいという意見が多かったものの、当時日本を支配していたGHQはこの2人を軍国主義の象徴と解釈し採用を認めませんでした。
その為、これらの人物を札に読まない代わりに『義理人情』という言葉で彼らを表現した訳ですが、実はもう1人、本当は採用したかったのにGHQから却下された人物がいます。
その人の名前は『小栗上野介』。
幼い頃から学問が得意だった小栗は早くからその才能を買われ、幕末に日本が開国するとすぐにアメリカの使節団の一員として派遣されます。
そして、そこで見たアメリカの文明の凄さに愕然。特に製鉄技術が日本よりもはるか先を行っていることに強い危機感を抱いた小栗は、帰国後に幕府に対して製鉄所の創設を提案したのです。
しかし当時は財政がひっ迫して幕府の存続も危ぶまれていた時代。当然そんなモノを作る余裕は無く周囲は大反対したのですが、小栗は確固たる執念で、
『幕府の運命に限りがあっても、日本の運命に限りはない』
と言い放って真っ向から対立。この言葉と熱意が周囲の人達の心を揺さぶり、その結果、1865年にフランス政府の力を借りて『横須賀製鉄所』が稼働したのです。
しかしそれから3年経った1868年、小栗は無実の罪を着せられて高崎の倉渕町で打ち首となってしまいます。
その為、小栗の存在は歴史に埋もれてしまったのですが、その功績を何とか多くの県民に知って欲しいと考えたのが、上毛かるたの生みの親である浦野匡彦先生。
浦野先生は『歴史は百年先を見据えることが重要』と常に言っていたそうなのですが、百年先の日本を考えて奔走した小栗上野介は、まさにその象徴だったのです。
実際に製鉄所が開業した40年後、日本は日露戦争でロシアに勝利するのですが、その指揮を執った東郷平八郎は、『日露戦争の勝利は幕末の小栗殿のお陰だ』と語っています。小栗が日本の未来を見据えて製鉄所を作っていなければ、当時のロシアの巨大艦隊に勝利することは無かった訳です。
そして小栗上野介と同様に、浦野先生はこの上毛かるたも『百年先を見据えて作った』と言っていたそうです。
今年は上毛かるたが制作されて77年目。まだまだ上毛かるたは継続していかねばならないのです。
2024年2月13日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊