1333年5月8日、鎌倉幕府を倒す為に現在の太田市にある生品神社で挙兵した新田義貞。
当時の北条氏の政治に不満を募らせていた武士達は次々と義貞に加勢し、挙兵後わずか2週間で倒幕を実現します。これがまさに歴史に名高い大偉業なのです。
しかし、その後の室町幕府は足利尊氏によって創られており、この時に義貞の名前は出てきません。
これについては以前『は』の札で紹介した『新田義貞の妻に贈ったつつじ』の話でも少し触れましたが、実は義貞はとても悲しい最期を迎えていたことを皆さんはご存じでしょうか?
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は武士に政権を握らせない為、全ての権力を自分に結集させました。
いわゆる『建武の新政』です。
しかしその下で実務にあたった公家達は長い間政治を行っておらず、また戦で手柄を立てて高官となった武士達も初めての事で上手く仕事ができません。その為、政治は大混乱となったのです。
また建武の新政では公家と武士を平等に扱う約束でしたが、実際は公家にだけ高い地位が与えられていた為、徐々に武士達は後醍醐天皇に不満を持ち始めます。
そして立ち上がったのが足利尊氏。尊氏は財産を切り崩してまで配下の侍たちに恩賞を与え、自分に忠誠を誓う侍たちを増やしていったのです。
もちろん後醍醐天皇はこれに激怒。すぐに尊氏を討つよう新田義貞に命令を下します。
当時、義貞も建武の新政下では大きな出世を遂げておらず、その為、尊氏を倒せば名声を得るチャンスだと考え挙兵します。
しかし箱根で足利軍に惨敗し、その後も何度か交戦するものの敗北を重ねていってしまうのです。
そしてとどめを刺すように義貞の耳に届いたのは、形勢不利と見た後醍醐天皇が義貞を裏切って尊氏と和睦したという知らせ。
失望した義貞は北陸へ逃亡するもなお足利軍と戦い続け、結局1338年、現在の福井県にあたる越前国で戦死したのです。
天皇を信じて平和な世の中を目指した義貞だったのですが、最後には主君に裏切られてしまうという悲しい結末でした。
しかし、それから300年以上が経過した1656年。
その越前で、1人の農民が水田から泥だらけになった兜を見つけます。かなり身分の高い武将が着用した形跡があり、学者に鑑定を依頼したところ、これが新田義貞本人の着用していた兜と判明します。
その後、この場所には石碑が建設され、地元の方々はこの地を『新田塚』と呼ぶようになったのです。
現在この場所には新田義貞を祭神とした『藤島神社』が建立されています。そして掘り出された兜は神社の宝物として献納され、日々多くの参拝客が訪れています。
2024年3月5日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊