人口約22万人を誇る県内3番目に大きな都市:太田市。
北関東を代表する工業都市であり、大正以降は現在のSUBARUとその前身である中島飛行機の企業城下町として飛躍的な発展を遂げてきました。
またこの太田市にある大光院は江戸時代に創建されたお寺であり、初代住職となった呑龍上人は、食糧不足などが理由で捨てられそうになった子供を自分の弟子として預かり、大光院で育てました。
この話が全国に伝わっていき、呑龍上人は『子育て呑龍さま』と呼ばれて多くの人々に親しまれるようになったのです。
さて、この札に読まれている”金山”という地名。これは太田市の中心にある標高239mの山を指していますが、戦国時代にはこの山頂に由良家が拠点としていた『金山城』がありました。
北に上杉、南に北条、西には武田と名立たる勢力の境目に位置していた為に何度も何度も攻め込まれたのですが、落城はおろか城の内部への侵入すら許さなかったという難攻不落の城として知られていたのです。
そしてこの金山城で巻き起こった戦いの数々を語る際に外せない人物がいます。
それは城主であった由良成繁の妻:『妙印尼輝子(みょういんにてるこ)』。皆さんはこの女性の存在をご存じでしょうか?
出典:https://www.myouinniteruko.com/
時は1584年。既に輝子は71歳と高齢であり、夫:成繁も亡くなって息子の国繁が城主となっていた時のこと。
当時、南関東を治めていた北条家が『同盟を組もう』と国繁を小田原の茶会へと誘い出します。
これに国繁は出かけて行ってしまうのですが、その茶会というのは真っ赤なウソ。そのまま小田原城の中に国繁は幽閉され、北条は城主のいなくなった金山城を手に入れようと北へ兵を進めたのです。
しかし、これに対抗したのが金山城で留守番をしていた母:妙印尼輝子。
国繁が不在の中、北条が攻めてくると知った城内は大混乱となったのですが、輝子は家臣たちを指揮し、籠城で守り抜くことを決断したのです。
その結果、最終的には国繁を解放する代わりに金山城を明け渡すことで北条と合意。城は失ってしまいましたが、女性ながらもその勇敢な行動は北条の目論見を大きく狂わせたのです。
またその6年後の1590年、豊臣秀吉が北条に攻め入った小田原征伐では、息子の国繁は北条に味方して豊臣を迎え撃ったのですが、何と母:輝子はその敵方である豊臣に加勢します。そして戦いの中で功績を挙げ、秀吉から現在の茨城県にある牛久の領地をもらい受けたのです。
ちなみにこの時、輝子はなんと77歳。普通ならば男ですら隠居している年齢なのにも関わらず、由良家存続の為に最前線で戦い続けました。
どうやらこの頃から、群馬には『かかあ天下』が根付いていたのかもしれません。
2024年4月30日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊