江戸時代の沼田藩に住んでいた農民『杉木茂左衛門』。
時は17世紀後半、当時の沼田藩を治めていた真田信利は過剰の年貢を納めさせるなどで貧しい農民たちを苦しめていました。
その悪政を何とかしようと勇気を持って立ち上がったのがこの茂左衛門。
当時、江戸幕府の将軍であった徳川綱吉に信利の悪政を知ってもらう為、直訴状を持って1人江戸へと向かい、見事その訴えを将軍へ伝えることに成功したのです。
その結果、信利は全領地没収という厳しい処罰を受けたのですが、当時は農民が直接幕府に訴えを起こすのは、正しい事を言っていようがいまいが許されないこと。
1686年、茂左衛門は沼田へと帰った時に身柄を拘束され、磔(はりつけ)の刑に処せられたのです。
しかしその後、沼田の村人たちは彼の供養の為に石地蔵を作り、千日間、毎日感謝の気持ちで祈り続けました。この時の石地蔵が祀られているのが『て』の絵札に描かれている月夜野の『茂左衛門地蔵尊千日堂』。
今でもお彼岸の時期などは大勢の地元の方々で賑わっています。
さて、このように茂左衛門は自分の命と引き換えに地元の方々を悪政から救った訳ですが、実は彼以外にも、幕府への直訴がきっかけで命を奪われた人物がいます。それは現在のみなかみ町に住んでいた『松井市兵衛』。
市兵衛は茂左衛門が江戸へ旅立つ数カ月前、幕府の役人であった桜井庄之助という人物に接触して沼田で今何が起こっているかを直接訴えたと言われています。
しかしその訴えは将軍に届くことはなく、そのまま幕府に身柄を捕らえられて投獄され、打ち首となってしまったのです。
またその後は先ほども申し上げた通り、江戸へ行って直訴を成功させた茂左衛門も幕府への密告の罪として処刑されてしまった訳ですが、実はこの茂左衛門の直訴に協力して、将軍に渡す直訴状を清書した新治村のお寺の住職も同様に処刑されています。
さらに。
茂左衛門の処刑については多くの沼田の農民から助命を嘆願されており、それを受けて幕府は罪を軽くするよう書状を出していたのですが、幕府の役人が急いで沼田へ向かい書状を届けようとしたものの、残念ながら処刑の日までに届けることはできませんでした。
そしてその役人も、茂左衛門を助けることができなかった責任の重さから、刑の執行を聞いた道中で切腹したと言われているのです。
上毛かるたでは茂左衛門の功績のみ取り上げられていますが、この沼田の悪政から農民たちを救う為、実は彼以外の命も犠牲となっていたのです。
2024年8月13日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊