『下仁田街道』の宿場町として栄えた下仁田町。
妙義山や荒船山などに囲まれて水はけのよい土地であったことから、古くよりねぎとこんにゃくが作られてきました。
今では国内で生産されるこんにゃくの9割以上が下仁田産であり、また下仁田ねぎも独特の甘みがあって多くの日本人に好まれています。
また下仁田街道は中仙道のいわゆる”脇道”であり、埼玉県の本庄宿から分岐して藤岡宿や富岡宿を通り、信濃へと抜けるルートを指します。
本街道と比べると難所が少なく女性が通行しやすかったことから、別名『上州姫街道』とも言われたのです。
そしてこの下仁田町一帯ですが、実はねぎとこんにゃく以外にも、江戸時代以前は人々の生活に欠かせなかった”ある物”が採れる日本有数の場所として有名でした。それは何か、皆さんはご存じでしょうか?
正解は、刃物を研ぐ際に使われる『砥石(といし)』。
昔は家事をきりもりする女性はもちろん、刀を持ち歩く侍や木を加工する刃物を使う大工さんなど、多くの人たちにとって砥石は無くてはならないものでした。
さらに時代を遡ると、群馬県内の古墳からも動物の骨で作った槍の先を研ぐ為の砥石が数多く発見されています。
槍がボロボロになると狩りができなくなって食料が無くなってしまう訳ですから、当時の人たちにとってはまさに生きていく為の必需品だったのです。
そしてその砥石の一大採掘地であったのがこの下仁田一帯。
特に下仁田のお隣にある南牧村の『砥沢(とざわ)』という地域で盛んに採掘されており、江戸時代には幕府の直轄地として管理されていました。
そして採った石は下仁田街道を使って運ばれ、また江戸幕府へは『御蔵砥(ごぞうと)』という名前で献上されていたのです。
この南牧村の砥石は昭和50年代まで採掘されていました。
しかし、その後安価な人工の砥石が主流になったこと、また人々の生活の中から刃物を使うこと自体が減ってきたことから天然の砥石の需要は減少して閉山となり、昭和60年代以降は全く採掘されていません。
その影響で昔は多くの人たちが住んでいたこの一帯も現在は衰退していっており、2023年10月現在住民の65歳以上の割合を示す高齢化率は下仁田町が52.5%、南牧村が67.5%と全国平均に比べてかなり高い値となっています。
特に南牧村の67.5%は全国一位の数字であり、日本一高齢化の進んでいる市町村となってしまっているのです。
何とも厳しい現実なのですが、ねぎとこんにゃく以外にもこの下仁田一帯には日本を代表する産業があったことをよく覚えておいて下さい!
2024年9月17日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊