1843年に安中藩士の家に生まれた新島襄。
幼い頃から外国に興味を持ち、1864年、21歳の時に幕府による渡航禁止令を破り、函館港から外国船に乗り込み出国。
約9年のアメリカ生活ののち帰国した襄は、日本でキリスト教の精神を持つ人材を育てる為、京都に同志社大学の前身である『同志社英学校』を設立。日本で初めてキリスト教を基にした教育を行ったのです。
ただ新島襄は、最初から学校を創る為にアメリカへと渡ったのではありません。
そもそも海外に興味を持ったのは、幕末にアメリカ人宣教師が漢文に訳した聖書に出会ったこと。これに感銘を受けた襄は、この聖書に書かれている事が日常にある国に行ってみたいと思い立ったのです。
そして渡米から8年後の1872年。襄はその後の人生に大きく影響する、ある団体に遭遇します。
それは『岩倉使節団』。
岩倉使節団とは岩倉具視をリーダーとする欧米への使節団であり、当時日米で交わされた不平等条約を改正する為の交渉と、近代化を進める為の欧米の制度や文化を視察することを目的としていました。
そしてそのメンバーは、のちの初代内閣総理大臣となる伊藤博文や大久保利通、木戸孝允など錚々たる顔ぶれだったのですが、当時留学生としてアメリカに滞在していた襄はその英語力が高く評価され、使節団の通訳として採用されたのです。
そして彼らと一緒にニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアなど8カ国を訪ね歩いたのですが、他のメンバーは造船所や製鉄所などの産業面に興味を持ったのに対し、襄が強く関心をいただいたのが教育施設。
当時の欧米にはハンディキャップを持つ子供たちに対して彼らの能力を最大限に伸ばすような学校や、また犯罪をおかした人達を立ち直らせる施設がありました。
要するにキリスト教を基にした『人間を大切にする』ということが欧米には深く根付いていた訳ですが、当時の日本は読み書きそろばんなど知識や技能を教える場所はあったものの、人間を大切にするという発想はほとんど無かったのです。
そのため、『日本が自由で民主的な近代国家になるには、一人ひとりの個性と人格が十分に尊重されることが大事』という考えのもとで設立されたのが同志社英学校。
とはいえ彼の死後、戦争などの影響で、個人の人格よりも『国家の役に立つ人間』を育成することが日本の教育には優先されます。
襄が理想とした教育はなかなか根付くことはなかったのですが、戦後に教育基本法が制定された事で『人格の尊重』が重視されるようになり、現在の教育の根幹となっていったのです。
2025年11月4日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊