吾妻川中流の約2.5kmに渡る渓谷:吾妻渓谷。
大昔に火山から噴きだした溶岩が長い年月をかけて浸食され、現在の深い渓谷になったと考えられています。
また大正時代、当時日本を代表する地理学者であった志賀重昂(しがしげたか)がこの地を訪れ、新聞で『九州の耶馬渓は天下一の絶景と言われるが、上州吾妻川の渓谷は耶馬渓以上である』と吾妻峡を大絶賛します。この言葉が上毛かるたの『や』の読み札の由来となっている訳です。
そして戦国時代、この周辺は武田軍の要衝としても機能していました。
それが吾妻渓谷の東側に位置する『岩櫃山』です。
岩櫃山はゴツゴツとした断崖絶壁の山であり、約600万年前の噴火活動によってできた山が、長い期間風雨や川の流れに侵蝕されて現在の形となりました。
そしてこの中腹には武田の家臣であった真田家の城、難攻不落と言われた『岩櫃城』が建っていたのですが、ここに武田家滅亡の悲しい物語があります。
1582年、信玄亡き後の武田家はその息子の勝頼が家督を継いでいたのですが、織田・徳川の連合軍に攻められて苦しい状況が続いていました。
そしてこの年、織田信長は武田家の本拠地である甲州に攻め入った為、勝頼は撤退を余儀なくされるのです。
更にこの年に起こったのが浅間山の噴火。実は当時、この浅間山が噴火すると東国に災いが訪れると言われていました。そのためこれを機に武田家の家臣たちは自分の身を守る為に次々と織田家へ寝返ってしまったのです。
しかしその時、岩櫃城に拠点を置いていた真田昌幸は、主君である勝頼をこの岩櫃に招き入れて武田軍の再起を図ることを提案します。
そしてその勝頼を急いで招く為、昌幸は岩櫃山の麓に『古谷館(ふるややかた)』という屋敷をたった3日間で建てたのです。
しかし最終的に勝頼がこの屋敷に来ることはありませんでした。
織田軍の追っ手に阻まれ、この時既に現在の甲府市にある天目山(てんもくざん)で自害をしていたのです。この世を去る直前、勝頼の軍勢はたった40人ほどしかおらず、織田の大軍をすり抜けて岩櫃へと逃げるのはほぼ不可能だったのです。
このように主君を迎い入れることのできなかった古谷館は、その後潜竜院(せんりゅういん)という名前の寺に変わり、明治17年までこの地にあったと言われています。
そして現在は建物も無く石垣のみが遺されています。実際に行ってみると分かるのですが、荒々しい岩櫃山の中に静かに広がっているその跡地は何とも言えない不思議な空間です。まさに真田が勝頼の為に用意した最高の場所だったのです。
潜竜院跡
2025年12月23日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊