北関東の交通の要衝である高崎市。
現在高崎駅にはJR在来線と私鉄、そして新幹線の9路線が乗り入れており、更に高速道路も関越道と北関東道に分かれる高崎ジャンクションがあります。札に詠まれている通り、高崎市は関東と信越地方をつなぐ中継都市として重要な役割を担っています。
またこの交通の歴史は江戸時代まで遡ることができ、当時は中山道の宿場町:高崎宿が存在しました。ここから越後方面へと向かう三国街道との分岐点として多くの旅人が高崎を通行していたのです。
しかし多くの人が行き来するということは、その分、事件や犯罪を厳しく取り締まる必要があります。その為、徳川家康は家臣であった井伊直政に対し、高崎の監視の目を強化するよう命令します。
その結果、1597年に作られたのが『高崎城』。以降、高崎は東京ドーム3個半にあたる5万坪という広大な敷地面積を持つ城の城下町として栄え、また関ヶ原の戦いの時には、徳川秀忠率いる3万5千の大軍がこの城に逗留したと言われています。
しかしこの巨大要塞である高崎城、幕末にある人物によって乗っ取られそうになったことを皆さんはご存じでしょうか?
その人物とは、現在の一万円札の顔である『渋沢栄一』。
1863年、当時日本はペリー来航によって開国派と攘夷派の2つの意見が対立しており、様々な場所で争いごとが起きていた時代でした。そんな中当時、尊王攘夷派として鎖国を継続すべきと考えていた当時若干23歳の渋沢栄一は、同郷の友人であった尾高惇忠(じゅんちゅう)や渋沢喜作など69人と共に高崎城を襲撃して武器や弾薬を奪おうと計画します。
そしてその武器を使って横浜にあった外国人居留地を焼き討ちにすれば、幕府は欧米諸国から責任を取るよう詰め寄られ、江戸幕府は転覆するだろうと考えた訳です。
しかし当然のことながらこれは無謀な計画。
当時同じように開国を反対していた天誅組という千人規模の集団でさえ幕府に一網打尽にされており、たった69人の集団では幕府はおろか広大な高崎城を乗っ取ることすら困難だったはず。
その為、最終的には渋沢の従兄から強い説得を受け、この計画は未遂に終わった訳です。
仮にもしこの高崎城乗っ取り計画が実行されていたとしたら、おそらく渋沢栄一は捕らえられ、その後の活躍はなかったと思います。
その乗っ取られかけた高崎城は現在もなお、何事も無かったかのように乾櫓(いぬいやぐら)や東門などの一部が残っています。
またその敷地には高崎市役所や群馬音楽センターなど、市の中心施設が建設されているのです。
2025年5月6日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊