2025年8月12日放送 - つ:つる舞う形の群馬県


 

上毛かるた44枚の代表的な札である『つ』の札。

この『つる舞う形』という表現、もともとは群馬出身の作詞家:石原和三郎(いしはらわさぶろう)が1900年に作った『上野唱歌(こうずけしょうか)』の一節、「晴れたる空に舞う鶴の姿に似たる上野は・・・」という部分に由来しています。

 

 

そのため単純に群馬県の地形を詠んだ札であると思われがちなのですが、実はそれだけではなく、以前このコーナーでも紹介した通り、上毛かるたの生みの親である浦野匡彦先生のある想いが込められています。

 

 

浦野先生は戦時中に仕事で満洲に滞在しており、終戦後に命からがら日本へと帰国をしたのですが、満州に滞在していた仲間たちがソ連軍の侵攻にあい、シベリアへと連行されてしまったことを知ります。

いわゆる『シベリア抑留』という事件であり、この時約60万人の日本人が寒いシベリアで不当な労働を強いられ、そのうち約6万人が飢えと寒さで亡くなったのです。

 

この仲間たちに対し、浦野先生は遠く離れた群馬で、

 

『シベリアから日本に飛び立つ渡り鳥である”鶴”に心を託して、一歩でも二歩でもいいから南下してきて欲しい!いつか必ず救出してみせる!』

 

と誓いました。

このように、”つ”の札には当時シベリアに抑留された人たちへのメッセージが込められていると言われています。

 

 

ただその後日本政府は、1946年5月からアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月に抑留者の引揚に関する暫定協定が成立します。更に1956年に調印された日ソ共同宣言によって日本とソ連の間の国交が回復したことにより、生存していた日本人のほぼ全員が解放されたのです。

 

 

 

これによってほとんどの抑留者がソ連のナホトカ港から船に乗って日本へと帰国したのですが、ここで驚くべきことが1つ。

それは、引き揚げてくる人たちの船を受け入れたのが、京都府にある『舞鶴港』だったということ。

 

 

抑留者に対して『鶴のように南下して来い!』というメッセージを”つ”の札に込めた訳ですが、その結果、生存者が舞鶴に帰還したというのはもちろん単なる偶然なのですが、何かの巡り合わせだったのかもと感じずにはいられません。

 

 

1945年に引揚港に指定され、その任務を終える1958年までの13年間において、この舞鶴港で受け入れた引揚の船の数は346隻。人数にすると約66万人。

舞鶴に降り立った人々は、ここで多くの人々にから歓迎を受け、帰るべき場所へと帰って行ったのです。

 

 

現在舞鶴市にある『舞鶴引揚記念館』では当時の写真や資料が展示されており、またそこに所蔵されている570点の資料が世界記憶遺産に登録されています。

 

 

2025年8月12日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

  

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊