2025年8月19日放送 - て:天下の義人 茂左衛門


 時は17世紀後半。

当時沼田藩には真田信利という藩主がいたのですが、これがなかなかの悪者であり、農民から破格の年貢を納めさせて村人たちを苦しめていました。

そのため、その悪政を何とかしようと立ち上がったのが沼田の農民であった『杉木茂左衛門』。

 

真田の悪政を幕府に伝えようを直訴文を用意し、江戸へと向かって当時の将軍:徳川綱吉へと届けたのです。

その結果、真田信利は幕府から城や領地を没収されるという厳しい処罰を受ける事となりました。

 

 

ただ当時、農民が直接幕府に直訴をすることは正しい事を言っていようがいまいが許されないこと。

その為1686年、茂左衛門は幕府への密告罪として妻子と共に利根川沿いの月夜野の河原で磔(はりつけ)の刑に処せられてしまいます。

 

その処刑された場所に建てられているのが『て』の絵札に描かれている『茂左衛門地蔵尊千日堂』。

当時の沼田の農民たちを救ったヒーローとして祀られていますが、そのヒーローは現代では考えられない形で命を断たれたのです。

 

 

ただ実は、この一件による悲劇はそれだけではありませんでした。

当時、将軍への直訴文を用意するにしても、一介の農民に過ぎない茂左衛門にはそんな文章を書くことができません。

その為、この直訴文は別の人物によって作成されたのですが、これを書いたのが現在のみなかみ町にあった宝蔵寺というお寺の住職:覚端(かくは)。

 

 

そして茂左衛門が直訴をした後に覚端は沼田城で取り調べを受け、真田の家臣たちによって沼田市の恩田河原という所で生きたまま埋め殺されてしまったのです。

 

 

更に、茂左衛門が処刑される当日、江戸幕府より服部と名乗る使者が沼田へと向かっていました。

実は茂左衛門が捕らえられた後、彼の罪を許すようにと幕府から赦免状(しゃめんじょう)が出されており、それを届ける為に彼は必死で馬を走らせていたのです。

 

しかしその赦免状は間に合わず、茂左衛門の刑は執行。そしてその連絡を受けた服部は責任を取り、その場で割腹自殺をしたと言われています。

 

 

直訴状を書いたことから生き埋めにされた覚端は現在、千日堂から利根川を3kmほど下った沼田市の恩田町にある『大宝院塚』という場所に葬られています。

また幕府の使者:服部が自害した場所である沼田市の井土上町(いどのうえまち)には、地元の人々が状橋(じょうばし)地蔵という地蔵様を建立しました。

 

 

現代の常識で考えるとかなり理不尽な話ではありますが、当時の沼田藩を救う為、実は茂左衛門以外の人の命もこんな風に犠牲になっていたのです。

 

2025年8月19日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

  

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊