『下仁田街道』の宿場町として栄えた下仁田町。
下仁田街道とは中仙道の脇道であり、本街道と比べると難所が少なく女性が通行しやすかったことから、別名『姫街道』とも言われました。
そして下仁田は妙義山や荒船山などに囲まれて水はけのよい土地であることから、古くよりねぎとこんにゃくが作られてきました。今では国内で生産されるこんにゃくの9割以上が下仁田産であり、一方ねぎも独特の甘みがあって多くの日本人に好まれています。
さてこの下仁田ねぎ、現在では高級食材として認識されているのは言うまでもありませんが、いつ頃から珍重されるようになったのかは定かではありません。ただ、1805年には江戸幕府から下仁田の名主に対して「ねぎ200本を至急送れ。運賃はいくらかかっても構わない。」という手紙が送られていたことが分かっています。
更に1832年には、当時高崎藩の藩主だった松平輝承(まつだいらてるよし)が、日本各地の殿様に年末年始の贈答品として下仁田ねぎを贈ったという記録もあります。そのため、この頃に下仁田ねぎは『殿様ねぎ』と呼ばれ、幕末の位の高い人たちに一目置かれる食材になっていったと言われているのです。
そして明治に入ると、ある歴史的な出来事によって下仁田ねぎの価値は更に飛躍していきます。その出来事とは何か、皆さんはご存じでしょうか?
正解は、富岡製糸場の操業。
1872年に操業を開始した富岡製糸場は、翌年オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に絹糸を出品。そしていきなり第2等賞という輝かしい賞を受賞します。これによって製糸場は一気に注目を浴び、国内外から多くの訪問客が訪れるようになったのですが、この時に訪問客への贈答品とされたのが下仁田ねぎ。
更に1908年、後の大正天皇となる皇太子殿下が陸軍の機動隊を訪問する為に群馬へと来た際、皇室として初めて下仁田ねぎを召し上がったと言われています。
このようにして下仁田ねぎは江戸時代から明治にかけ、高級食材としてのブランドを確立していったのです。
しかし高級食材となった為に、一般庶民はなかなかお目にかかれなくなったのも事実。
そのため以前このコーナーでもお話しましたが、上毛かるたの『ね』の絵札に描かれているねぎは下仁田ねぎではなく、実は深谷ねぎなのではないかという説があります。
これは当時絵札を担当した画家の小見辰男先生さえも、下仁田ねぎをあまり見たことがなく、深谷ねぎを題材にして描いたからと言われています。
もちろんこの説の真偽は不明ですが、それほど高価な食材を作っているのだという下仁田町民の誇りがこの札には込められているのです。
2025年9月23日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊