昔から群馬県民は『義理人情に厚い』と言われてきました。
この義理人情を辞書で調べると『人の心に配慮することのできる性格や心情』と書かれています。
人にやってもらったことにお返ししたり、人と交わした約束を必ず守ったりと自分の利益より人の気持ちを第一に考える心を群馬県民は持っているという訳です。
そして以前もお話した通り、この『ら』の札は上毛かるたの背景を語る上で非常に重要な札です。
このかるたが制作された1947年、当時県民からは『高山彦九郎』や『国定忠治』など群馬を代表する偉人を札にして欲しいという意見が多数寄せられていました。
しかし、当時日本を支配していたGHQはこの2人を軍国主義の象徴と解釈して採用を認めず、仕方なく2人を『義理人情』という言葉で表すのみに留めたのです。
さてそのうちの一人である国定忠治ですが、ご存じの通り彼は博打や縄張り荒らし、関所破りなど数々の悪事を働いたものの、一方でその稼ぎを貧しい人々に与え、 “強きをくじき弱きを救う英雄”として後世に讃えられています。
そして現在、伊勢崎市にある養寿寺というお寺に彼のお墓があるのですが、1930年にある人がここを訪れています。
その人の名前は『萩原朔太郎』。
言わずと知れた群馬を代表する詩人であり、詩集『月に吠える』や『青猫』を刊行して日本近代詩に大きな影響を与えました。
しかし40歳を迎えた頃に家庭が破綻して妻と離婚。朔太郎は2人の娘を引き取り、更に父の看病もしなければならなかった為、帰るつもりもなかった前橋へと戻ってきます。好きなこともできない自分に「居場所がない」と感じ、孤独ややり場のない憤りを抱えていた訳です。
そんな中、ある日朔太郎は1人自転車に乗って20キロも離れた忠治の墓を訪れ、晩年にその時のことを『国定忠治の墓』という詩で表しています。
その詩の中身は省略しますが、途中の一節に
"見よ ここに無用の石
路傍の笹の風に吹かれて
無頼(ぶらい)の眠りたる墓は立てり"
と書かれています。
弱き者たちの英雄だった国定忠治も、今となっては空っ風の吹く場所に寂しく葬られている。その墓の様子を見て朔太郎は「自分も忠治と同じように世の中から捨てられてしまった存在だ」という親近感を抱いた訳です。
そしてその忠治の墓ですが、現在も養寿寺の中にあるものの今は鉄柵で覆われています。
以前、全国のギャンブル好きの間で忠治の墓石を削って肌身につけると賭けごとに強くなるという逸話が広まり、削って持ち帰る人が多発したのです。
その為、破天荒な生き様を見せた忠治の墓とは思えないくらい、その墓石は丸くなってしまっています。
2026年1月20日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊