2021年11月9日放送 - む:昔を語る多胡の古碑


 2017年にユネスコの『世界の記憶』に登録された上野三碑。

 

これは高崎市の吉井町周辺に現存する飛鳥時代から奈良時代の頃に作られた石碑であり、多胡碑、山上碑、金井沢碑の3つを指します。

 

 

この時代に作られた石碑は国内にわずか18例しか残っていないのですが、その中の3つがとても近い距離に集中しており、また保存状態も良い事から当時の様子を知る貴重な資料として大切に守られてきました。そしてこの札は、その1つである『多胡碑』を詠んだ札です。

 

 

  

この多胡碑には80字の漢字が刻まれており、またその中に和銅四年と書かれている事から、西暦711年頃に作られたことが分かります。

 

また当時、石碑は特別なできごとや誰かの業績を記録する為に作られていたのですが、この多胡碑には一体何が書かれているのか、皆さんはご存知でしょうか?

 

 

実は多胡碑には大きく2つの事が漢文で記載されています。それは、

 

●上野国の14番目の郡として、多胡郡をこの辺りに設置したこと
●『羊(ひつじ)』という人物を、この郡の初代長官としたこと

 

2つです。

 

 

要するに新しい郡が作られたことを記念して建てられたのですが、注目すべきなのは漢字一文字で刻まれている『羊』という人物。多胡碑を語る上で、この一文字が非常に重要です。

 

  

なぜならこの『羊』という人物は今でも謎に包まれたままであり、そもそも実在したのかすらも分からないからです。

 

 

当時、桓武天皇の命で作られた続日本紀(しょくにほんぎ)という歴史書にも多胡郡ができた時の事が書かれているのですが、こちらには『羊』という人物は登場しておらず、当時多胡郡が誰によって統治されていたのかも記載されていません。

 

 

また、有力な説としては朝鮮からの渡来人である『羊太夫(ひつじだゆう)』 という人物ではないかとされているのですが、郡の長官ならば亡くなった時に古墳が作られても良いものの、現在のところ羊太夫のものとみなされる古墳は発見されていません。

 

 

更に他の歴史書では、『羊太夫は天皇の顔を伺いに、多胡郡から百里以上の距離を現在の奈良県まで毎日往復していた』という信じがたい記載もあります。

 

従いまして、そもそも羊太夫は伝説上の人物であり、碑に刻まれた『羊』は人名ではなく他の事を示しているのでは?と考える学者もいる訳です。

 

  

今後更に研究が進んでこの謎が解明されると嬉しいのですが、その反面、全て分かってしまうと何だか残念にも思います。古代のロマンはロマンとして、永遠に謎に包まれていても良いのでは?と思うのです。

多胡碑の隣には現在、多胡碑記念館が開館しています。行った事のない方は是非一度訪れて見て、古代ロマンに思いを馳せてみて下さい。

 

 

2021年11月9日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊