2021年8月17日放送 - に:日本で最初の富岡製糸


 

 この札は皆様ご存知、群馬が誇る世界遺産『富岡製糸場』を詠んだ札です。

1872年に開業した製糸場は1987年に操業を停止するまで日本の絹産業の技術革新に大きく貢献しました。そのことが高く評価され、2014年6月に『富岡製糸場と絹産業遺産群』の構成遺産として世界遺産に正式登録されました。

 

また操業停止後も当時の経営母体であった片倉工業が建物の保存に尽力したことで、今でも開業当時のレンガ造が良好な状態で残っています。

 

 

さてこの製糸場、そもそも当時なぜ建設地として富岡が選ばれたのかを皆さんはご存知でしょうか?

もちろん群馬では養蚕が盛んで、生糸の原料である繭がたくさん取れるからというのが大きな理由です。しかしもう1つ、製糸場を建てる為に絶対欠かせないものが群馬にありました。それは・・・『石炭』です。

初期の富岡製糸場の動力は蒸気機関なので、生糸を作る器械を稼働させる為にはその燃料となる石炭が絶対に必要だった訳です。

 

 

実は昔、富岡の近くにある高崎の観音山付近では『亜炭(あたん)』と呼ばれる石炭が豊富に取れました。

この亜炭を安定して供給できること、そして原料の繭が大量に確保できること、さらに建設に必要な広大な土地があることの3つの理由から、最終的に富岡に製糸場を建てることが決定されたのです。

 

 

ちなみに建設当時、明治政府から5名の製糸場設置主任が任命されたのですが、そのうちの1人が今年の大河ドラマ”青天を衝け”でお馴染みの『渋沢栄一』です。

当時渋沢栄一は大蔵省に身を置いていましたが、農家出身で養蚕に詳しかったことから設置主任に抜擢され、建設に向けてフランス人の製糸技術者であるポール・ブリュナを雇うなどの功績を残しています。

 

 

また建設後、製糸場の初代場長を務めたのが、大河ドラマの中で田辺誠一さんが演じている栄一のいとこ:尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)。

彼が場長に就任後の最初の仕事は製糸場内で働く工女を全国から集める事だったのですが、当時ポール・ブリュナが飲んでいた赤ワインを若い娘の血だと誤解され、工女の募集は生き血を絞るためだという噂が人々に広まり、最初は希望者が全く集まりませんでした。

その為、淳忠は当時14歳だった実の娘を工女第1号として採用し、噂を払拭したというエピソードも残っています。

 

 

今後のドラマの中で富岡製糸場の事が出てくるのかどうか?は私もよく知りません。また他にも製糸場についてはたくさんカタりたいことがあるのですが、今日はここまでにしておきます(笑)

群馬の宝から世界の宝となった富岡製糸場を、これからも県民一人ひとりの手で守っていきたいですね。