2021年8月24日放送 - ぬ:沼田城下の塩原太助


 

東京の両国に『塩原橋』という橋があり、またその近くに塩原太助が江戸で過ごした炭屋の跡があります。

この『ぬ』の札は群馬が生んだ江戸時代の大商人:塩原太助を詠んだ札です。

 

 

まずはこの塩原太助、いったい何をした人物なのかを皆さんはご存知でしょうか?

江戸時代の大商人と言ってしまうと、そろばん弾きながら『へっへっへっ』と不敵な笑みを浮かべてお代官様と悪い事を考えている・・・なんてのを想像してしまいますが(私だけ?)、太助は全く違います。

 


塩原太助は1743年に現在のみなかみ町の農家で生まれたのですが、幼い時に両親を亡くし、義母からひどいいじめにあい、18歳の時に故郷を出て江戸に向かいます。ただ当初は仕事が全く見つからずにいっそ自分の命を絶とうかと思うくらい困っていました。

しかしある炭屋の主人に助けられたことをきっかけに太助はそこで一生懸命まじめに働き、38歳の時に独立して自分の炭屋を開き、江戸では知らない人がいないほどの大商人へと上り詰めたのです。

 

 

ただ大商人と言っても先程のような悪者ではなく、太助は暗い道に灯篭を建てたり、石畳を敷いたりと社会の為に自分の財産を使いました。

現在でも榛名湖の近くの天神峠や、香川県の丸亀市には『太助灯篭』と呼ばれる太助の建てた灯篭が残っています。

また太助は製品の炭を作る時に出るくずや粉を無駄にしない為に、それらにのりを加えて丸めて安く売りました。

これが『たどん』という商品であり、値段が安くまた火が長持ちする事から貧しい人でも燃料として使うことができたのです。

 

 

このように太助は社会や貧しい人のくらしに貢献する為に働いたのですが、その彼の名を一躍有名にしたのが明治時代の落語家の三遊亭円朝さん。円朝さんは太助の波乱万丈の人生に注目し、当時わざわざ沼田に来てまで太助のことを調べ上げ、『塩原太助一代記』という創作噺を作ります。これが当時大人気の作品となりました。

 

 

また明治20年頃、当時の小学生の『修身(今でいう道徳)』の教科書で勤勉に働く事の大切さを子供達に理解させる為、二宮金次郎と共に塩原太助の生涯が紹介されます。

これら2つのことで、日本全国に太助の名前が広まっていった訳です。

 

 

皆さんも是非機会がありましたら『塩原太助一代記』の噺を聴いてみて下さい。今でもYouTubeで動画が挙げられているはずです。

ちょっと長いお噺ですが、特に『ぬ』の絵札にもなっている太助が故郷から江戸に出る為に小さい頃から一緒に暮らした愛馬のアオと別れる場面は・・・泣けます。