2022年10月4日放送 - は:花山公園つつじの名所


 

 館林城のすぐ隣に位置する『つつじが岡公園』。

 

もともとこの公園辺りは古代から野生のヤマツツジが数多く生えていた土地であり、室町時代には既にこの周辺は『つつじが崎』と呼ばれていました。

 

また江戸時代になると、歴代の館林城の城主が日本各地のツツジを園内に移植したことでその規模はどんどん拡大していき、更に城主が交代する際には役人が園内のツツジ1本1本を数えて記録した上で新城主に引き継いでいました。

それだけ当時の館林の人達にとってツツジは娯楽の1つであると共に財産でもあったのです。

 

 

 

現在でも公園内には、東京ドームとほぼ同じ広さの敷地に1万株のツツジが咲き誇っており、また今となっては他では見られない大変珍しい品種も存在します。

その中でも今回取り上げたいのが『江戸キリシマ』という品種。皆さんご存知でしょうか?

 

 

 

この『江戸キリシマ』というツツジは、江戸時代に巣鴨で植木商を営んでいた三代目伊藤伊兵衛(いとういへえ)という人物が品種改良して作ったものです。

 

 

当時の江戸は空前の園芸ブーム。人々はツツジやツバキ、ボタンなど様々な花を育てて楽しんでいたのですが、中でもこの『江戸キリシマ』は枝の数が多くびっしりと花を咲かせることから当時のブームを牽引していた品種でした。

 

 

そしてそのブームに拍車をかけたのが現在の大久保駅付近に住んでいた下級武士たち。

彼らは江戸城の警備などを仕事としていたのですが、当時は戦の無い平和な時代。手柄を上げる機会もなく、その為給料も上がらずに貧しい生活を送っていたのです。

 

 

そこで家計の足しにと始めたのが、江戸キリシマの栽培。

彼らが警備の際に使っていた鉄砲に入れる火薬は、硫黄や石灰が成分である為にツツジの肥料として利用することができます。

その為彼らの副業としてぴったりであり、毎日せっせと江戸キリシマを栽培した事で幕末の大久保はツツジの名所として栄えた訳です。

 

 

 

しかし明治になると東京は都会化していき、江戸キリシマの栽培は徐々に衰退していきます。ただ1915年、ある事がこの江戸キリシマを絶滅から救います。

 

当時館林に住んでいた杉本八代さんという方が、大久保のつつじ園から江戸キリシマの苗木1200株を購入し、それをつつじが岡公園に寄付したのです。

 

 

このおかげで東京ではほぼ見られなくなった江戸キリシマが樹齢100年を超えた今でも館林で数多くの花を咲かせています。このように江戸キリシマが自然形のまま保護育成されているのは、現在つつじが岡公園しかありません。

 

 

つつじの見頃は4~5月。来年の春、是非館林で当時の江戸っ子達を魅了した江戸キリシマが咲き誇る風景を見てみて下さい。

 

 

202210月4日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊