2022年11月29日放送 - む:昔を語る多胡の古碑


 

 高崎市の吉井町に保存されている『多胡碑』。

 

今から約1300年前に作られたこの石碑は、当時の人々のくらしや文化を知る上での貴重な史料として1954年に国の特別史跡に指定、また2017年にはユネスコの『世界の記憶』に”上野三碑”の1つとして登録されました。

 

 

この上野三碑とは、多胡碑の他に山上碑と金井沢碑を加えた3つの碑を指します。

どれも飛鳥時代から奈良時代の頃に作られた最古の石碑であることに加え、これらが半径5kmの範囲内に集中して建っているということも注目すべきポイントです。

 

 

 

さてこの多胡碑。私も何度か見に行った事がありますが、その度にすごいと思うのは、1300年という月日が経っているにも関わらず、文字がはっきり確認できるほど良い状態で保存されていること。この長い年月において多胡碑がどのように保存されてきたのか、皆さんはご存知でしょうか?

 

 

多胡碑が建てられたのは、奈良に平城京が作られた翌年の西暦711年頃。

 

しかしそれ以降この碑の存在について記されている文献は一切なく、多胡碑について触れられている一番古いものは1509年に宗長(そうちょう)という連歌師が書いた『東路の津登(あずまじのつと)』という本。

 

実は碑が作られてから宗長が本に書くまでの800年間、誰がどのような状態で保存していたのかは全く分かっていないのです。

 

 

しかしその後は江戸時代の文化人たちがたびたび碑を訪れたことで徐々にその存在が世に知れ渡っていきます。そして明治になると、ある人物がこの多胡碑の保存活動を一気に活発化させます。

その人とは、群馬県の初代県令であった楫取素彦。

  

 

1876年に県令に就任した楫取は直接多胡碑を訪れてその価値の高さを認識し、碑の周りの柵の設置や修理を行いました。また更に地元の人達には、多胡碑周辺の土地を買収して整備するよう助言し、それに必要なお金の一部を自ら寄付したと言われています。

最終的に周辺の土地は政府が買い上げたのですが、この楫取の行動が多胡碑の文化的価値を世に知らしめたのです。

 

 

しかし終戦後の1945年、多胡碑は地元付近の桑畑に一時埋められたことがあります。

その理由は碑の存在を隠す為。敗戦により日本はGHQによって支配されましたが、その際アメリカの手によって破壊されてしまうのではないかと恐れた当時の文部省が、碑を隠すよう指示したのです。幸いGHQに手を付けられる事は無くすぐに掘り出されたのですが、それくらい当時の人達は多胡碑を守る事に必死だったのです。

 

 

1300年の間に様々な事があったものの多くの人の手で大事に保存され、現在に至る多胡碑。そして我々は先人達と同様に、この貴重な文化財を後世に残していかなければならない訳です。

 

 

2022年11月29

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

  

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊