2022年12月6日放送 - め:銘仙織出す伊勢崎市


1940年に県内4番目の市として誕生した伊勢崎市。

 

もともと養蚕が盛んであったこの地域の農家の人達は、市場に出すことが難しい繭、いわゆる”くず繭”を利用して『太織(ふとり)』という織物を作り、自分達の普段着として着ていました。

しかし明治時代になるとその太織の安さや軽さが人々を惹きつけ、徐々に一般庶民の間にも浸透していきます。これが『伊勢崎銘仙』の始まりです。

 

 

 

 

 

『銘仙』とは比較的カジュアルな女性の普段着として大正から昭和にかけて流行した和服のことを指します。

 

人気を博した銘仙はその後日本各地で生産されるようになるのですが、取り分け伊勢崎、桐生、秩父、足利、八王子は『銘仙の5大産地』と言われていました。しかし、その中でも伊勢崎の生産は群を抜いており、過去最高の生産量を記録したのは1930年。

 

この年、5大産地全体での銘仙の生産量は1200万反だったのですが、そのうち456万反は伊勢崎で生産されたものでした。当時日本の人口は約7000万人だったのですが、計算すると当時の女性の7人に1人は伊勢崎銘仙を着ていたことになるという驚異的な数字なのです。

 

 

しかしそれより前の明治時代。一時、全国の商人たちから、『伊勢崎の織物は劣悪品である』というレッテルを貼られてしまった時期がある事を皆さんはご存知でしょうか?

 

 

その理由は当時、外国から安い化学染料が入ってきた事に端を発します。

安いコストで織物を生産できる為、藍などの天然染料に頼っていた生産者達はこぞってそれを使うようになるのですが、当時の化学染料は染めてもすぐに色が落ちてしまうという劣悪なもの。

その為、その染料を積極的に用いていた伊勢崎の織物の評判はガクッと落ちてしまったのです。

 

 

 

 

しかしその窮地を救ったのが、当時地元の村会議員をしていた下城弥一郎(しもじょうやいちろう)。

まず弥一郎は織物に外国の化学染料を使用することを禁止し、天然の染料に戻すことに専念します。

更に、織り上げた品物が伊勢崎のものであることを製品に明記し、生産者の責任の所在を示すことを考えます。

 

 

いわゆる現在で言う所の『ブランドラベル』。

これによって伊勢崎織物の信用は復活し、一気にその名を全国に広めていくことになるのです。

 

 

また弥一郎は劣悪な染料によって織物の評判を落としてしまった経験から、その染料の研究を行う織物講習所を1886年に創設します。

これが現在の県立伊勢崎工業高校にあたる訳です。

 

 

明治時代の伊勢崎の危機を救った下城弥一郎のブランド戦略。その後、伊勢崎銘仙は世界へと羽ばたいていったのです。

 

 

 

2021年12月6日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊