2023年11月7日放送 - へ:平和の使徒 新島襄


1843年に安中藩士の家に生まれた新島襄。

幼い頃から外国に興味を持ち、21歳の時に幕府による渡航禁止令を破り、函館港から外国船に乗り込み出国。

約9年のアメリカ生活ののち帰国した襄は、日本の為にキリスト教の精神を持つ人材を育てたいと考え、京都に同志社大学の前身である『同志社英学校』を設立。日本で初めてキリスト教を基にした教育を行ったのです。

 

 

またこの新島襄を語る際に、外せない存在であるのが妻であった『新島八重』。

2013年の大河ドラマ『八重の桜』でも取り上げられたので、ご存じの方も多いと思います。

 

 

 

新島八重は会津藩の出身。小さい頃から砲術に興味を持っていた八重は、幕末に起こった戊辰戦争で会津藩が新政府軍と戦った時には会津軍へ加勢。

会津若松城での籠城戦では、銃で明治政府軍を次々と狙撃しました。そんな活躍もあって、新島八重は『幕末のジャンヌ・ダルク』と呼ばれたのです。

 

 

しかしキリスト教教育の為に奔走した新島襄と、銃で政府軍に立ち向かった八重。生き方が全く違う気もしますが、そんな2人がなぜ夫婦となったのでしょうか? 

 

 

それはある暑い夏の日。襄が京都府の顧問をしていた山本覚馬(やまもとかくま)という人物に同志社設立の相談に行った際、中庭で1人の女性が井戸の上に板を敷き、その上に座って裁縫をしている姿を目にします。

 

扇風機もエアコンもない時代、井戸の上が涼しいのは分かるのですが、もし板が割れたりすれば真っ逆さまに転落してしまいます。その為、襄は覚馬に『なぜあの婦人に何も言わないのか』と聞くと、『妹は危険なことばかりするのだよ』と言って注意もしませんでした。

 

この裁縫をしている山本覚馬の妹が八重であり、襄との最初の出会いだったのです。

 

 

このように八重は常識外れの行動を繰り返す女性であり、兄でさえ手を焼く存在でした。

ただ、のちに襄は友人に宛てた手紙に「八重は決して美人ではない。生き方がハンサムなのだ。」と記しています。

また別の場で襄が理想の結婚相手を聞かれた時、『亭主が東を向けと言えば東を向くような婦人はご免だ』と答えています。

 

古い日本の型にはまる女性は好きでなく、多少常識外れであっても信念のままに行動する女性と一緒になりたいと襄は考えていたのです。

 

 

結婚後、襄は八重に自分のことを『ジョー』と呼ばせ、また人力車に乗る時はレディファーストで八重を先に乗せていました。それを見た周囲の人々からは『夫を立てない悪妻』と罵られたようですが、八重自身はそれに全く動じず、2人は常に一緒に行動をしていたと言います。

1890年に襄は急逝します。結婚生活はわずか14年でしたが、八重は最期まで襄を支えぬいたのです。

 

 

 

2023年11月7日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊