2023年3月7日放送 - 上毛かるたはカタル:番外編①


 

 『上毛かるたはカタル』も2周目が終わり、毎回各札の内容やそれにまつわる話を取り上げてきました。

 

しかし以前お話した通り、このかるたが制作されたのはまだ日本がGHQの管理下にあった1947年。

上毛かるたの発行には彼らの検閲が必要であり、国定忠治や高山彦九郎といった群馬を代表する偉人は日本の軍国主義の象徴だと判断され、札への採用を却下されてしまったのです。

 

 

しかし皆さん、国定忠治についてはある程度知っていると思いますが、『高山彦九郎』については名前を聞いても正直ピンとこない方が多いのではと思います。

皆さんはこの高山彦九郎が何をした人なのか御存知でしょうか?

 

実はこの人がいなかったら明治維新が起こっていなかったかもしれない?のです。

 

 

 

 

高山彦九郎は1747年に現在の太田市で生まれます。

当時は戦もなく平穏な世の中でしたが、既に江戸幕府ができて150年ほど経過しており、徐々にその体制への批判が大きくなっていた時期でもありました。

 

また彦九郎自身は13歳の時、自分の祖先は後醍醐天皇のもとで鎌倉幕府を倒した新田義貞の家臣であったことを知ります。

その為、次第に幕府中心の政治をやめて天皇中心の国家を目指す『尊王思想』を抱くようになり、全国を回ってこの考えを多くの人に広めていったのです。

 

 

残念ながら彦九郎は1793年に自害してこの世を去ります。

しかし彼は生前に自分の考えを日記に書き留めており、その日記がその後の幕末の人達に大きな影響を与えます。

 

中でも彦九郎を最も崇拝していたのが吉田松陰。

ちなみに『松陰』とは彦九郎が亡くなった時に付けられた諡(おくりな)であり、それを自分の名前に使ってしまうほど彦九郎を尊敬していました。

 

 

 

更にその吉田松陰は松下村塾を主宰し、高杉晋作や伊藤博文など、幕末から明治にかけて日本を牽引する多くの偉人を世に輩出していくことになります。

これら全ての原点が高山彦九郎の思想であり、日本は明治維新へと突き進んでいった訳です。

 

 

最初に申し上げた通り、上毛かるたでは彦九郎を採用できず、その為現在の群馬県内での知名度はそれほど高くありません。しかし、京都に行くとかなり多くの人がその名を知っています。

 

というのも京都のど真ん中にある三条大橋には、彦九郎が京都御所に向かってひざまずいている銅像が立っており、ここが渋谷のハチ公前のような待ち合わせスポットになっているからです。

 

 

また故郷の太田市には高山彦九郎記念館があり、そこに行けば彼の功績を詳しく知ることができ、ご興味のある方、是非一度行ってみて下さい。

 

 

 

2023年3月7

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

  

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊