2023年4月11日放送 - い:伊香保温泉 日本の名湯


 

 昔から良質な温泉として親しまれてきた上州三名湯の1つ:伊香保温泉。

 

戦国時代に真田昌幸が作った石段の温泉街は、現在その両側に多くの旅館やお土産物屋さんが立ち並んでおり、年間約100万人の宿泊客が訪れます。

また与謝野晶子や竹久夢二、土屋文明などの著名人からも長年愛され、多くの文学作品の中にも伊香保が登場しています。

 

 

そして更に、お札の肖像画にもなったあの文豪もかつて伊香保に訪れていました。

その人の名は、夏目漱石。しかし漱石の場合、ちょっと特別な事情があって訪れていたようです。

 

それは・・・恋の決着。

 

 

 

 

1893年、当時東京師範学校で英語の教師をしていた26歳の漱石は、この頃にある女性と知り合います。

東京麹町出身の生粋のお嬢様なのですが、仲良くなるにつれ次第に心惹かれる存在となっていくのです。

 

しかし同じ頃、この女性は他の男性ともお見合いをしています。

その人の名前は、漱石の大学の友人でもある小屋保治(こややすじ)。小屋は現在の前橋高校の出身であり、のちに東京帝国大学の教授となる方なのですが、この人が漱石の恋のライバルとなる訳です。

 

 

その為漱石は1894年7月、上野から前橋行きの汽車に乗ってひとり伊香保温泉へ向かい、夏の休暇で群馬へと帰省していた小屋を宿泊先の旅館へと呼びます。

 

 

この日、旅館の中で何が話されたのか?正確なことはこの2人以外誰も知りません。

しかしこの半年後に小屋はこの女性と結婚したのに対し、漱石は東京師範学校を辞職して当時ゆかりがある訳でもなかった愛媛県に向かい、松山の中学校教師となります。

 

おそらくこの伊香保の旅館の中で様々なことを2人で話した結果、最終的には漱石がこの恋を諦めて小屋に女性をゆずり、自分の気持ちに決着をつけたのではないかと言われている訳です。

  

 

 

このように漱石にとっては大失恋だった訳ですが、その後松山では正岡子規との縁もあって執筆活動に目覚め、1905年に処女作『吾輩は猫である』を発表します。

その後亡くなるまでのたった11年間の間に『坊ちゃん』や『それから』、『こころ』などの名作を立て続けに発表し、日本を代表する文豪としてその名を轟かせていきます。

 

もしかしたら、この失恋と伊香保での一件が転機となり、漱石を表現者として大きく成長させたのかもしれません。

 

 

 

ちなみに漱石が恋したこの女性、1910年に35歳の若さで亡くなってしまいます。その一報を聞いた時、漱石は胃潰瘍で入院中だったのですが、病室で

 

「ある程の菊投げ入れよ棺(かん)の中」

 

といふ手向けの句を詠んで故人を偲びました。

諦めたとはいえ、漱石にとって一生涯の特別な女性だった訳です。

 

2023年4月11日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊