2023年8月15日放送 - つ:つる舞う形の群馬県


 

上毛かるた44枚の中の代表的な札である『つ』の札。

この『つる舞う形』という表現、もともとは群馬出身の作詞家:石原和三郎(いしはらわさぶろう)が1900年に作った『上野唱歌(こうずけしょうか)』の一節、「晴れたる空に舞う鶴の姿に似たる上野は・・・」という部分に由来しています。

その為、今でもほぼ全ての県民が「群馬=鶴の形」と認識していますよね。

 

 

しかし戦時中は”戦意高揚”の為、この歌の『鶴』の部分を『ワシ』や『タカ』に変えて歌われていました。

その為、上毛かるたの生みの親である浦野匡彦先生は平和な世の中を取り戻す為、いち早くこれを”鶴”に戻して定着させたいと考え、敢えて上毛かるたで『つる舞う形の群馬県』と詠ったと言われています。

 

 

さて、この”戦意高揚”という言葉。平和な時代が続くとなかなか理解できない部分もあるのですが、戦時中は戦う意志を国民に植え付ける為、様々な策が採用されました。

 

 

そして当時日本軍が行った戦意高揚の方策として、群馬に非常に関係の深い人物がいます。

それは『軍神(ぐんしん) 岩佐直治(いわさなおじ)』さん。皆さんはこの方のお名前をご存じでしょうか?

 

 

岩佐さんは前橋生まれであり、現在の前橋高校にあたる旧制前橋中学校を卒業後、海軍兵学校へと進学します。

そして1941年12月8日。この日、大日本帝国海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したことで太平洋戦争が開戦したのですが、この時に魚雷を備えた特殊潜航艇5隻を率いたのが海軍大尉であった岩佐さん。そして自らもこの特殊潜航艇に乗りこんで攻撃し、26歳の若さで戦死したのです。

 

 

そして日本軍はその功績を称えると共に国民の戦意高揚を図る為、生前は大尉だった岩佐さんを二階級特進して海軍中佐とし、その存在を神格化して『軍神』として祀ったのです。

それをきっかけに岩佐さんの名前は全国的に有名になり、当時の総理大臣である東条英機も岩佐さんの実家を訪れ、『軍神岩佐中佐』という楽曲まで作られました。

 

 

しかし日本の敗戦後は『軍神の出身地だから前橋が空襲で狙われたのだ』というデマが流れ、批判的に語られることも多かったようです。

そんな事もあり、徐々に岩佐さんの名を語る人は減っていき。近年その名前を知る人はほとんどいなくなってしまいました。

 

 

奇しくも、上毛かるたの制作者である浦野匡彦先生は岩佐中佐と同じ前橋高校の卒業生。5歳離れているので、2人が知り合いだったのかどうかは分かりませんが、当時ほとんどの日本人がそれぞれの立場で戦争に翻弄されて生きていた訳です。

 

本日は終戦記念日。岩佐中佐は現在、前橋市内の松竹院というお寺に眠っています。

 

2023年8月15日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊