高崎の観音山の頂上にある高さ41.8mの『高崎白衣大観音像』。
1936年に高崎の実業家である井上保三郎(やすさぶろう)が、高崎を一大観光名所にしようと私財を投じて建設しました。
当時既に高崎駅は複数の路線が停車する交通の要衝であり、駅から見える山の上にこの大きな観音像を建てれば乗客たちの目を引き、汽車を降りて市内に流れる人が増えるのではと考えた訳です。
これにより、今でもこの観音像は高崎市のシンボルとして多くの観光客が訪れていますが、実は観光促進以外にもこの像を建てる大切な目的がありました。それは何か、皆さんはご存じでしょうか?
それは、『陸軍第15連隊』の慰霊。
陸軍第15連隊は1884年に高崎で編成された大日本帝国陸軍の歩兵部隊であり、日清戦争以降の全ての戦争に参加して戦績を収めてきました。
特に日露戦争では、遼東(リャオトン)半島の先端にあったロシア帝国の要塞陥落に大きく貢献したのですが、その反面多大な犠牲も負った事から、戦死した兵士たちの御霊を供養する場として建設したのが高崎観音なのです。
そしてその後、第15連隊は満州事変や日中戦争にも出征したのですが、1944年、彼らに悲劇が訪れます。それは太平洋戦争の中で最大の激戦となった『ペリリュー島の戦い』。
ペリリュー島は現在のパラオ共和国に属しており、東京から約3千キロも離れた場所にある島なのですが、1940年、ここに日本軍は戦闘機用の滑走路を建設しました。しかしここを攻撃する為、1944年9月15日にアメリカ軍が上陸したのです。
当時アメリカは「こんな小さな島は3日で征服できる」と考えていたのですが、それを迎え撃ったのが高崎の陸軍第15連隊を含む約1万人の日本軍。アメリカ軍は彼らの激しい抵抗に会い、2カ月以上にも及ぶ大激戦が繰り広げられました。
しかし数的にも優位だったアメリカ軍は徐々に島内部に進出していき、その年の11月27日にこの島の占領と戦闘終了を宣言。洞窟などに立てこもり続けていた約30名の日本兵以外は全員玉砕となってしまったのです。高崎観音像が建立してからわずか9年後のことでした。
その後日本がどうなったのかは皆さんご存知の通りですが、このペリリュー島には今でも日本軍司令部の建物や戦車がそのまま残っています。
そして群馬県民として悲しいのは、アメリカ軍がペリリュー島へ最初に上陸した場所は、当時この場所の防衛を担当した高崎の陸軍第15連隊に由来して『高崎湾』と呼ばれていたこと。
高崎市民の誇りを胸に、そして国の為に、この南の島で若者たちは命を落としていったのです。
2025年10月14日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊