だるまの国内生産シェアの約8割を占める『高崎だるま』。
群馬県内はもちろんのこと、県外でも選挙で当選した時には候補者が高崎だるまに目を入れることから、全国的な知名度を誇っています。
またこの高崎で最初にだるま作りを始めたのは、江戸時代の山県友五郎(やまがたともごろう)という人形職人。
だるまを始めた理由は諸説あるようですが、飢饉で苦しんでいた農民たちを救う為、少林山の和尚が友五郎にだるまの作り方を教えたという説もあれば、当時流行していた天然痘のお守りとして江戸で作られていただるまの技法を友五郎が高崎に持ち帰ったという説もあるようです。
そして、この高崎でだるまの生産が定着したきっかけとなった人物がもう1人います。
その人の名前は、『葦名鉄十郎盛幸(あしなてつじゅうろうもりゆき)』。
皆さんは、この人のことをご存じでしょうか?
盛幸は幕末の1862年に金沢藩士の息子として生まれたと言われています。
しかし当時養子に入った家と折り合いが悪くなり、その後は諸国を転々として生活をするようになります。
そして現在の少林山の近くにある上豊岡村へやって来た時に病に倒れ、村人たちが看病をしてくれたことから、以降はこの上豊岡村で生活するようになったのです。
またもともと手先が器用であったことから、のみや彫刻刀を使って村人たちにだるまの木の人形を作って見せます。
これが、だるまの一大産地の基となる『木型』作りの始まりなのです。
現在のだるま作りは機械化が進んでいるものの、昔はだるまの形をした木の型に水に濡らした紙を幾重にも貼り付けて乾燥させ、背中の部分から型を抜き取って成形するという方法を取っていました。
その為、だるま作りには木型が欠かせない存在であり、日本全国にだるまの生産地はたくさんあったものの、所有する型が少なかった為に生産量が増えず衰退していった所も数多くあるのです。
しかし盛幸はその後多くの職人から木型作りを頼まれるようになり、大小様々なだるまの型を1軒の職人に対して50~100体作り提供したと言われています。
また現在の高崎だるまはお腹の部分に『福入』などの文字が入れられますが、この文字を入れるスペースをだるまの木型に設けたのも盛幸が最初だと言われているのです。
現在では『真空成形』という機械的な製造方法が主流となり、木型はお役御免となっています。
しかし盛幸のおかげで高崎だるまの生産は衰退することなく、現在も約70名もの職人が年間90万個のだるまを生産しているのです。
2025年4月22日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊