2025年5月13日放送 - き:桐生は日本の機どころ


 古くから京都の西陣織と並ぶ絹織物の生産地として有名だった桐生。

そしてその『桐生織』は1977年から国の伝統工芸品に指定されています。

 

 

その起源は今のところ良く分かっていないのですが、714年には「あしぎぬ」という絹織物を朝廷に納めたという記述が当時の書物にも残っており、実に1300年以上前には既に桐生で織物が生産されていた事になるのです。

 

 

さて少し話は変わりますが、今から86年前にあたる1939年4月11日、この日発行されたアメリカのニューヨークタイムズに桐生出身のある男性の訃報が掲載され、また同じ日にニューヨークの商品取引所が黙祷を捧げて生前の活躍に敬意を表しました。

 

その人の名前は『新井領一郎』。皆さんはこの人の名前をご存じでしょうか?

 

 

 

新井領一郎は幕末の1855年に現在の桐生市の農家で生まれ、その後製糸業を営んでいた新井家に養子に入ります。

その後、横浜港が開港すると日本の生糸は海外で爆発的な人気を誇るようになる訳ですが、そのほとんどは国内の外国人居留地にいる商人を経由した取引であり、時には安く買い叩かれてしまうこともあったそうです。

 

そんな中、領一郎は1876年にアメリカへ渡り、兄が経営する製糸工場で生産した生糸を現地で直売したのです。

このように外国人居留地を経由しない生糸の直輸出はこれが初であり、その後領一郎は、日本初の国際的ビジネスマンの先駆者として、また生糸貿易を通じた日米交流のシンボル的な存在としてアメリカ国内に知れ渡るようになったのです。

 

 

またこの初めてアメリカに渡ろうとした時の様子は、前橋公園内に銅像で再現されています。

この銅像には新井領一郎とその兄、そして当時群馬県令であった楫取元彦とその妻の寿(ひさ)の4人が話をしていて、寿が領一郎に短刀を渡す場面を表しています。

 

楫取元彦の妻:寿は吉田松陰の実の妹。ペリー来航の際、吉田松陰は西洋の技術と文化に衝撃を受け、黒船に乗りこんでアメリカに渡ろうとしたのですが、結局は捕らえられて投獄となった経緯があります。

寿が渡した短刀は吉田松陰の形見であり、兄が果たせなかった想いを領一郎に託したと言われている訳です。

 

 

アメリカ現地では『日米生糸貿易の創始者』や『生きる生糸貿易の歴史』と称された領一郎ですが1939年にコネチカット州の自宅で死去。

彼の死後、更なる生糸貿易の発展が期待されていたのですが、しかしその後日米の関係は悪化。1941年には日本の法改正により生糸の輸出が停止され、アメリカでは対日資産が凍結。日米の経済交流は断絶状態となり、第2次世界大戦へと突入してしまったのです。

2025年5月13日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊