4世紀から6世紀ごろにかけて現在の群馬県と栃木県に存在した『毛野国(けのくに)』。
当時は東日本最大の国として栄えており、権力を持った多くの豪族がこの地に住んでいました。
その証拠となるのが群馬県内に1万以上存在すると言われる古墳。
特に当時の権力の象徴ともいえる大型の前方後円墳は群馬県内に100以上あると言われており、太田の天神山古墳や高崎の八幡塚古墳がその代表例となっています。
さて話は変わりますが、以前も申し上げた通り、上毛かるたは1947年に県民からの公募によって札に詠む44の題材を選びました。そしてそのうち、8枚は群馬が輩出した歴史上の偉人を紹介しています。
しかし題材を公募した当時、『ろ』の札の船津伝次平と同数である4件の公募がありながらも残念ながら採用に至らなかった毛野国を象徴する人物がいます。
それは誰なのか、皆さんはご存じでしょうか?
筑波山神社の豊城入彦命像 (出典:写真AC)
正解は、『豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)』。
実はこの人が群馬と栃木の前身である毛野国を作った張本人であると言われているのです。
豊城入彦命は日本の第10代天皇である崇神天皇(すじんてんのう)の息子。
当時、崇神天皇には2人の息子がいて、どちらに皇位を継承するか悩んでいました。そのため2人が夜寝ている時にどんな夢を見たかによって後継者を決めようと決心します。
いわゆる”夢占い”ということなのですが、その日豊城入彦命は夢の中で、東に向かって鉾や刀を振り回している自分の姿を見ます。それを聞いた崇神天皇は、彼に皇位を継がせるのではなく、当時朝廷が手つかずであった東国に派遣した方が良いと考えたのです。
その後大軍を率いて東へと向かった豊城入彦命は、見事東国を治めることに成功。そしてその後は西へと戻ることはなく、この地で生涯を終えます。
昔の事なので不明な点も多々あるのですが、一緒に戦った家臣たちもこの地に残り、以降彼らの一族が有力な豪族となって東国文化を発展させたという説もあるのです。
また、いまだに謎なのが、豊城入彦命のお墓がどこにあるのかということ。
実は1870年までは前橋にある総社二子山古墳が彼のお墓と認定されていたのですが、その後の調査でそれが間違いである事が分かります。以降、同じく前橋にある大室古墳群がそうだという説も挙がっているのですが、今のところ確固たる証拠は見つかっていないのです。
どんな人物だったのかは今となっては知る由もないのですが、現在、赤城神社や宇都宮の二荒山神社、茨城にある佐志能(さしの)神社など東国に関連する多くの神社が彼を祭神として祀っています。
2025年7月1日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊