2025年7月8日放送 - す:裾野は長し赤城山


 

 榛名山、妙義山と共に上毛三山の1つに数えられている標高1828mの赤城山。

大沼・小沼などの自然はもちろん、キャンプ場やスキー場などもあることから1年を通じて多くの観光客が訪れる県内有数の観光スポットとして知られています。

 

 

また札にも詠まれている通り赤城山の裾野は富士山に次ぐ長さであり、その美しさは多くの人を魅了し、日本百景の1つにも選ばれています。

 

さてその赤城山の美しさですが、もちろん現代人だけでなく、多くの歴史上の人物をも魅了してきました。そして明治・大正時代、日本文学史に残る文豪が赤城山を大絶賛しています。

 

その文豪とは、『芥川龍之介』。

 

 

 

言わずと知れた日本を代表する小説家ですが、実は龍之介は生涯の中で精力的に登山をしていました。

中でも、長野県の槍ヶ岳に登った時のことを『槍ヶ岳紀行』という本に書いているのは有名ですが、赤城山にも少なくとも2度登っていたことが分かっています。

 

1回目は19歳、そして2回目はその2年後の21歳の時のことなのですが、その時の出来事を、のちの大阪市立大学名誉教授であり芥川龍之介の親友でもあった恒藤恭(つねとうきょう)さんが『旧友芥川龍之介』という本に書いています。

 

 

その本によると、芥川は赤城山登山の道中で、

 

「ほんとうに佳いだらう。美しいだらう。だから僕は赤城山が一等好きだって言ふんだ。ねえ何処よりも佳いだらう」

 

と同行した友人たちに興奮気味に言っていたそうです。

 

 

またこの赤城登山のことは芥川龍之介自身も自らの文章で表現しています。

 

随筆『忘れられぬ印象』では、友人と赤城山に登った後で伊香保に1泊した際、隣座敷にいた紳士と意気投合して朝から6回も一緒に風呂へ行ったこと。

そして東京へ戻る時、高崎駅に着くと財布にお金がないことに気付き、その紳士に電車賃として1円20銭を借りたこと。

 

また同じく随筆文である『追憶』では、赤城登山の途中で『両親が死ぬと悲しいだろうか』との話になり、友人から「僕は悲しいとは思わない。君は創作をやるんだから、そういう人間もいるということを知っておくほうがいい。」と言われて戸惑いを隠せなかったこと。

 

などなど、赤城山登山の中で経験や友人とのやりとりを事細かく文章に遺しているのです。

 

 

そしてその2回目の赤城登山の2年後、龍之介は処女作となる『羅生門』を発表。以降、自殺をするまでの12年間の間に数々の名作を世に送り出していきます。

この2度の赤城山登山が、創作活動にどう影響したのかは分かりません。しかし雄大な赤城山の姿が若き龍之介の心を揺さぶったことは間違いありません。

 

2025年7月8日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊