江戸時代、沼田の貧しい農家からひとり上京し、江戸の町を代表する大商人へと登り詰めた塩原太助。
その生き様はとても興味深く、彼の死後、明治の天才落語家であった三遊亭圓朝(えんちょう)が『塩原多助一代記』という創作落語にして披露します。
そして太助の名前は一気に世の中へ広まり、更に戦前には道徳の教科書にも取り上げられ、努力をして目標を達成することの大切さを当時の子供たちに教えたのです。
このように江戸で巨万の富を築いた太助ですが、決してそれに奢ることはありませんでした。そして自分が成功した後も常人では考えられないほどの『倹約主義』を通したのです。
これについては江戸時代末期の1862年に書かれた随筆『宮川舎漫筆(きゅうせんしゃまんぴつ)』という本に、太助の倹約ぶりが書かれています。
例えば当時、塩原太助の屋敷の近くにあった亀戸天満宮でお祭があった時のこと。
太助は『自分が一代でこれだけのことを成し遂げられたのは氏神様のご加護であるから、子供達にも積極的に祭りに参加させよう』と言い、最高級の衣裳を作って息子たちを祭りに出席させました。
しかしその祭が終わった後。
あろうことか太助はその高価な衣装を細かく切り刻んでしまったのです。これには屋敷の番頭をはじめ太助の妻も止めにかかったのですが、太助は、
『こんな豪華な服を置きっぱなしにしておいたら、子供たちが見境なく何度も着てしまうだろう。そしてこれが奢りの始まりとなり、塩原家滅亡の元となってしまう。切り刻んだのはもったいないが、家の滅亡には代えがたい。』
と言い、折角の衣装を全て捨ててしまったのです。
また更に、この頃の資産家は誰もが持っていたのに、太助が生涯を通じて所有するのをこばんだあるモノがあります。
それは『蔵』。
当時はこの蔵を自分の家の敷地内に建てて米や繭、骨とう品などの財産を保管していたのですが、江戸の町で一番裕福だったであろう太助の屋敷に蔵はありませんでした。
実際、屋敷の番頭たちは非常時の為にも蔵を建てたの方が良いのではと太助に進言したのですが、
『元々この家は炭を売って生計を立てていたのだ。今、金がたくさんあるからと言って蔵をこしらえて品々を蓄えるのは、奢りとしか言えない。炭や薪は外に置いて雨風に晒しているのに、自分たちばかりが贅沢におぼれるのは、この品に対して申し訳が立たない。』
と言って、生涯江戸の屋敷に蔵を作ることはなかったそうです。
お金を出せばあらゆるモノが手に入ってしまう現代。我々はこの太助の生き方から何かを学ばなければいけないのではないでしょうか?
2025年9月16日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊