江戸時代初期に整備された五街道の1つである中仙道。東海道と共に江戸と京都を結ぶこの街道は、多くの人々が往来する重要な交通経路でした。
そして現在の安中市の原市付近の街道沿いに当時700本以上の杉が植えられたのですが、これが札に詠われている『安中杉並木』。
このような並木を作る事で、夏は行き交う人々に日陰を与え、冬は吹き付ける風から旅人を守ることができます。
また当時の宿場と宿場の間は何もなく、雪が降って辺り一面が真っ白になってしまうと旅人はどちらに歩いてよいか分からなくなってしまいます。そういう時には並木に沿って歩けば迷う事がなくなり、いわば道しるべのような役割もあった訳です。
排気ガスなどの影響で現在は十数本しか残っていませんが、国の天然記念物に指定されており、また地元の方々の懸命な保護活動も行われています。
さてこの中仙道ですが、江戸の日本橋から京都の三条大橋まで全長530kmの道のりには69の宿場町がありました。
そのうち上州に置かれたのは新町、倉賀野、高崎、板鼻、安中、松井田、坂本の7つの宿場町。
この中で、その成り立ちがちょっと特別な町があります。
それは『坂本宿』。
そもそも中仙道は1601年から7年かけて、東海道や日光街道などと共に幕府が整備した街道。
しかし実はこの時、坂本宿付近に住んでいる人は全くおらず、町自体も存在していなかったのです。
とはいえ、江戸から京都に向けて旅をする人々は必ず碓氷の関所を通らなければいけません。
そして人によっては長い時間取り調べを受けたり、待たされたりして、夕方に関所を出発しなければならないケースもある訳ですが、この関所の次に待ち受けているのが中仙道最大の難所と言われた碓氷峠。
夕方以降の暗くなった時間に碓氷峠を越えるのはかなり危険であり、獣や山賊などに襲われることも少なくありません。
そのため幕府は1625年、高崎宿や安中宿に住んでいた町人達を強制的に坂本へ移住させ、碓氷の関所と碓氷峠の間に人工的な宿場町を作ります。
これが『坂本宿』であり、最盛期には大名や幕府の役人など地位の高い人が宿泊する本陣、脇本陣が合計6軒、一般の旅人が泊まる旅籠は40軒以上と、碓氷峠越えのベースキャンプ的な存在として栄えていきました。
しかし明治維新後、現在の国道18号線にあたる碓氷新道が開通すると坂本宿に訪れる人は急激に減少し、町は一気に衰退していきます。
坂本宿ができて400年。今もひっそりとしてしまっていますが、絶壁のような碓氷峠に向かって一直線に続いている街並みが、当時の宿場町としての繁栄を物語っています。
2025年9月2日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊