今から約700年前にあたる1333年5月8日、鎌倉幕府を倒す為に現在の太田市にある生品神社で挙兵した新田義貞。
当時は北条氏が政権を握っていましたが、その身勝手な政治のやり方に武士達の間では不満が高まっていました。
そのため義貞は後醍醐天皇の命のもと鎌倉へと攻め入り、同年5月22日に14代執権である北条高時らを滅ぼし、見事鎌倉幕府の倒幕に成功したのです。
その後、義貞は後醍醐天皇を中心とした政治体制の下で要職に就くのですが、1338年に足利尊氏の反乱によって戦死してしまいます。
しかし義貞は最期の最期まで後醍醐天皇への忠誠を守り抜いたのです。
さて、その新田義貞には『脇屋義助(わきやよしすけ)』という優秀な弟がいました。
歴史上、あまり表に出ることはないのですが、実は新田義貞の鎌倉攻めは弟:義助がいなければ成し遂げられませんでした。
時は鎌倉攻めの数カ月前、現在の大阪府にあった千早城で楠木正成が幕府に対して反乱を起こします。
そのため幕府はこれを鎮圧する為に大軍を送り、義貞にも幕府軍に加勢して千早城を攻めるよう書状が届いていました。
しかしそんなつもりは全くない義貞は仮病を使ってこれを拒否。
更にその後、税を取り立てる為に幕府から使者が派遣されてきたのですが、義貞はこの者たちをしばり上げて首をはねたのです。
もちろんこれを聞いた幕府は大激怒。直ちに関東にいる武士達へ新田義貞を討つよう号令をかけました。
その一報を聞いた義貞は一族を集めて今後の対応を協議。
しかしその中には、『沼田に城を構えて敵を待とう』と主張する者もいれば、『越後にいる当家の一族を集めよう』と進言する者もいて、なかなか意見がまとまりません。
そんな中、口を開いたのが弟の義助。
『いくら強固な砦を作って敵を迎え撃っても、破られてしまえばそこで終わり。ならばいっそのこと兵を挙げて、鎌倉を攻撃するのが得策ではないか』と言い放ちます。
仮に沼田や越後で敗北してしまったら、『新田は幕府の使者を斬った後に他国へ逃げて討たれた』と嘲笑されて終わってしまいます。
であるならば、ただ守りに徹するのではなく、敢えて攻めの姿勢で行くべしという積極策を義助は提言した訳です。
その意見に賛成した義貞とその一同は、幕府に気付かれぬ前にただちに生品神社で挙兵。
そして鎌倉に行く道中で多くの武士たちを味方につけ、見事に幕府を滅亡させることができた訳です。
新田義貞が歴史に名高い偉業を成し遂げたのは弟の進言のおかげ。
今、大河ドラマで豊臣兄弟が話題ですが、新田兄弟も素晴らしい絆で結ばれていたのです。
2026年2月10日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊