伊香保に温泉が見つかったのは今から1300年以上も前の事で、万葉集にも『伊香保』の地名が出てくるほど長い歴史を持っています。
また戦国時代には長篠の戦いで負傷した武田軍の兵隊の療養場所として、武田勝頼が当時上州を支配していた真田昌幸に命じて温泉を整備させたそうで。現在シンボルとなっている石段もこの時にできたと言われています。
さて、上毛かるたで「い」の札を紹介する時に、語らずにはいられないのが『なぜ「い」の読札は赤いのか?』です。
これは上毛かるたが作られた1947年、戦後の荒廃していた日本に元気を取り戻す為、その活力を群馬県から率先して発信していきたいという上毛かるたの作者たちの強い思いがあり、"いろは・・・"の最初の文字である「い」を赤く染めました。
(ちなみに「い」の札の他に、「ら」の読札も赤く染められていますが、この理由は『ら』の札のページで)
さて、皆さんが『伊香保』と聞いて真っ先に思い浮かべる事は何でしょうか?
おそらく、『い』の絵札にも描かれている『石段街』の景色ではないかと思います。
現在365段ある石段の両側には旅館やお土産物屋さんが数多く立ち並び、この情景がまさに伊香保の代名詞となっていますよね。
この石段街は1576年頃にできあがったと言われています。
当時、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に敗れた武田勝頼は多数の負傷者を出します、そのため勝頼は温泉が湧く伊香保の地に負傷者の傷を癒す保養地を設ける事を発案します。
その保養地整備の命令を受けたのが『真田昌幸』。伊香保は山の斜面に位置している事から、昌幸はこの傾斜の移動をスムーズに行えるよう石段を整備し、その脇に並ぶ屋敷まで樋(とい)を作って源泉から温泉を引きました。
これが石段街で温泉経営が行われる様になった始まりという訳です。
このように温泉を中心としたまちづくりというのは当時他に例が無く、伊香保は日本で最も古い温泉リゾート地とも言われています。
そして、その石段街を歩いて足元を見ると、ふと『何これ?』と思った事はないでしょうか?
今の石段には子、丑、寅・・・と干支が描かれたプレートがあちらこちらに12枚埋まっています。
実は江戸時代、伊香保には『大屋(おおや)』と呼ばれる12の温泉宿があり、それぞれの宿が干支をシンボルにして温泉旅館を経営していました。
この大屋は毎年交代で名主や伊香保の関所の役人を務めており、当時この地域で大きな権力を持っていたのです。
そして、その当時大屋の屋敷があった跡地にシンボルとしていた十二支のプレートが埋め込まれている訳です。今でも12の大屋のうち4件が現役の温泉宿として経営しています。
伊香保に訪れた際は是非、この12のプレートを探してみて下さい。
ちなみに私は以前、何も下調べをせずにプレート探しへ行ったことがあるのですが、最後の2つがなかなか見つからず、1時間ほど石段を上ったり下りたりして筋肉痛になった思い出があります。
ご興味のある方は是非どの辺にプレートがあるのか、インターネットで確認してから出かける事をおススメします。
与謝野晶子や竹久夢二、土屋文明などの著名人からも長年愛され、多くの文学作品の中にも登場する伊香保温泉。
そして更に、お札の肖像画にもなったあの文豪もかつて伊香保に訪れていました。その人の名は、『夏目漱石』。
しかし漱石の場合、ちょっと特別な事情があって訪れていたようです。
それは・・・恋の決着。
1893年、当時東京師範学校で英語の教師をしていた26歳の漱石は、この頃にある女性と知り合います。
東京麹町出身の生粋のお嬢様なのですが、仲良くなるにつれ次第に心惹かれる存在となっていくのです。
しかし同じ頃、この女性は他の男性ともお見合いをしています。
その人の名前は、漱石の大学の友人でもある『小屋保治』。小屋は現在の前橋高校の出身であり、のちに東京帝国大学の教授となる方なのですが、この人が漱石の恋のライバルとなる訳です。
その為漱石は1894年7月、上野から前橋行きの汽車に乗ってひとり伊香保温泉へ向かい、夏の休暇で群馬へと帰省していた小屋を宿泊先の旅館へと呼びます。
この日、旅館の中で何が話されたのか?正確なことはこの2人以外誰も知りません。
しかしこの半年後に小屋はこの女性と結婚したのに対し、漱石は東京師範学校を辞職して当時ゆかりがある訳でもなかった愛媛県に向かい、松山の中学校教師となります。
おそらくこの伊香保の旅館の中で様々なことを2人で話した結果、最終的には漱石がこの恋を諦めて小屋に女性をゆずり、自分の気持ちに決着をつけたのではないかと言われている訳です。
このように漱石にとっては大失恋だった訳ですが、その後松山では正岡子規との縁もあって執筆活動に目覚め、1905年に処女作『吾輩は猫である』を発表します。
その後亡くなるまでのたった11年間の間に『坊ちゃん』や『それから』、『こころ』などの名作を立て続けに発表し、日本を代表する文豪としてその名を轟かせていきます。
もしかしたら、この失恋と伊香保での一件が転機となり、漱石を表現者として大きく成長させたのかもしれません。
ちなみに漱石が恋したこの女性、1910年に35歳の若さで亡くなってしまいます。その一報を聞いた時、漱石は胃潰瘍で入院中だったのですが、病室で
「ある程の菊投げ入れよ棺(かん)の中」
といふ手向けの句を詠んで故人を偲びました。
諦めたとはいえ、漱石にとって一生涯の特別な女性だった訳です。
そして同じく明治時代、この伊香保温泉には皇室の方々が避暑の為に訪れる『御用邸』が存在しました。
当時、伊香保は健康回復に効果のある温泉と高く評価され、また標高約700メートルの涼しい気候や、鉄道網の整備が進んで東京からのアクセスが容易になったこともあり、1893年に『伊香保御用邸』が建設されたのです。
以降、夏になると多くの皇族が伊香保を訪れるようになり、1911年には当時10歳であった昭和天皇も避暑の為に滞在されています。
そしてこの御用邸には、皇室の方々が伊香保で安全に夏を過ごす為に無くてはならない、群馬らしいあるモノが設置されました。
今となっては当たり前であるものの、当時は東京などの大都市以外で設置されるのは大変珍しかったモノなのですが、それは何か、皆さんはご存じでしょうか?
正解は・・・『避雷針』。
そもそも"伊香保"という地名の由来は諸説あるものの、雷が発生する山と言う意味である『雷の峰(いかつちのほ)』だとされており、言うまでもなく群馬の夏は雷が毎日のように鳴り響きます。
ある日御用邸の近くの旅館に落雷があり、被害を恐れた当時の宮内庁担当者は、皇室が滞在する期間だけでも避雷針を取り付けられないかと内務省に要請します。
そしてこれが全国的に避雷針を普及させるきっかけとなったと言われているのです。
しかし1945年、終戦に伴って皇室の財産整理をする為に伊香保御用邸は廃止となります。
その後建物だけは残っていたのですが、1952年に火災によって焼失してしまったのです。
現在その跡地には群馬大学の伊香保研修所が建っており、敷地内には御用邸の記念碑と、当時皇族が玄関で履物を脱ぐ際に使用された沓脱石(くつぬぎいし)だけが残されています。
跡地の後方に広がっているのは雄大な榛名山の大自然。当時の皇室の方々も、夏の榛名山へハイキングに行ったり、バードウォッチングをしたりして自然を満喫していたのかもしれません。
この伊香保温泉の入口付近に「峠の公園」という公園があり、その中にレトロな佇まいの電車が1台展示されています。
実際に70年以上前に使われていたものなのですが、この伊香保温泉にはかつて路面電車が走っていました。
この路線は『伊香保軌道線』と呼ばれており、かつては前橋駅前や高崎駅前から渋川市内を通って伊香保までを結んでいた東武鉄道運営の路面電車です。
もともとは前橋と高崎にあった馬車鉄道が1910年に電力で動く路面電車となり、更に同じ年に伊香保の有志一同の出資によって伊香保軌道線が開業。渋川新町で既存の路面電車と接続することで、総延長距離48kmという当時としては国内屈指の長さを誇る都市間鉄道となったのです。
しかし昭和に入ると、安価な乗合バスが全国的に普及し始めたことで利用客が大幅に減少。そのため伊香保の路面電車は開業から25年後の1935年(昭和10年)に一旦廃止が決定されてしまうのです。
ただその2年後に日中戦争が勃発すると状況は一変。路面電車は戦争下の物資の輸送手段として再び注目を浴びるようになり、町民に食料を届けたり、また学童疎開する子供たちを伊香保へ送り届けたりする役割を担います。
そして戦争が終結したあとも人々の生活の足として使われ、1949年には年間約495万人の利用客があったと記録されています。しかしその後、バスの輸送網が整備されてくると再び経営は悪化し、1956年12月28日の運転を最後に惜しまれつつも廃線となったのです。
渋川から伊香保までの高低差は524メートル、最大勾配は57.1パーミルとかつて『鉄道の難所』と言われた碓氷峠に匹敵する地形。とはいえアプト式を採用していた訳ではなく、スイッチバック方式によってゆっくりゆっくりと急な坂道を上っていたようなのですが、その分、乗客の皆さんは伊香保の自然を味わいながら、温泉を心待ちにして乗っていたのかもしれません。
KING OF JMK代表理事
渡邉 俊