まえばしラジオ(84.5MHz)M-wave Evening Echoesで毎週火曜に放送している"上毛かるたはカタル"の原稿をアーカイブとして掲載しています。
上毛かるたの札を深く知りたい方、是非読んでみてください!
この札は1783年に大噴火を起こした浅間山を詠んだ札です。
当時の地元の人達はその噴火の様子を『突然鬼が暴れて、真っ赤な舌を出して襲ってきた』と表現したそうで、その言葉からも噴火の恐怖は想像を超えるものだったと考えられます。
またこの1783年はアメリカの独立戦争が終結した年であり、翌年『アメリカ合衆国』が生まれました。
世界が大きく前進し始めた年なのですが、悲しくも日本では浅間山の噴火が発端となって『天明の大ききん』が発生、多くの人が飢えに苦しむことになっていきます。
当時の噴火の様子は嬬恋村の『鬼押出し園』に行けばよく分かりますが、それに加えて是非『鎌原観音堂』にも足を運んでみることをおススメします。
この観音堂がある鎌原村(当時)は人口570人という小さな村でしたが、浅間山の大噴火によって村がまるごと溶岩に飲み込まれ、村民の8割以上である477人がその犠牲となりました。
この鎌原観音堂は高台にある為に村の中で唯一被害を逃れた建物であり、残りの村人の命を守った場所として今も残っています。
噴火から約200年が経った1979年に観音堂周辺の発掘調査を行ったところ、石段から若い女性が年配の女性を背負った状態の遺骨が発見され、大きな話題となりました。
『あ』の札を通じて、自然は人間が計り知れないほど大きな力を持っている事を是非多くの方に再認識して欲しいと思います。
さてこの天明の大噴火、当時の資料や言い伝えをたどると途轍もなく恐ろしい噴火であったことが分かります。
その噴火の音は京都や大阪まで届いたと言われており、発生した火砕流は山の北側を猛スピードで流れ、当時人口500人余りであった鎌原村(かんばらむら)を壊滅させました。また軽井沢では大量に降ってきた火山灰や軽石の影響により多く民家が押しつぶされたと言われています。
更に、空高く舞い上がった噴煙が日光を遮断したことで気温が上がらず、噴火から約1ヶ月半がたった8月24日には雪が降ったという記録まで残っています。
この冷害は農業に致命的な打撃を与え、餓死者が20万人とも言われる『天明の大飢饉』を引き起こします。そしてその時の政策の失敗によって民衆の怒りを買ったのが当時幕府で権力を握っていた老中の田沼意次。田沼はこれが原因となって失脚へと追い込まれる訳です。
このように当時の浅間山の大噴火は様々な被害をもたらした訳ですが、実は日本国内のみならず、ある世界的な事件のきっかけになったという研究結果があることを皆さんはご存知でしょうか?
それは・・・『フランス革命』。
イギリスの歴史学者の論文によると、浅間山の噴煙は偏西風に乗ってヨーロッパへも広がったことが分かっています。
その為日光が遮断されてヨーロッパでも冷害が起き、農作物の不作が相次いだのです。
その当時、フランスで権力を握っていたのはルイ16世。その傲慢な政治に国民はかなりの不満を持っていたのですが、そこに農作物の不作が加わったことでその不満は爆発。
これがフランス革命へと突き進んでいくきっかけになったという訳です。
とはいえ、実はこの1783年は浅間山だけではなく、東北地方にある岩木山やアイスランドのラキ火山なども相次いで大噴火を起こした年。
決して浅間山だけがフランス革命の原因とは言えないと思いますが、ただこのように火山の噴火は直接的な災害をもたらすのはもちろん、地球規模での異常気象やその後の歴史にも大きな影響を与えるのです。
忘れてはならないのは、浅間山は今なお活火山だという事。
雄大な山の景色には癒されますが、時には牙をむく存在だと行く事を認識しなければいけないですね。
しかしこの災害後、鎌原村がどのように復興していったのかはあまり知られていない感じがしますが皆さんはご存知でしょうか?
この噴火の後、復興に向けてリーダー的な役割を担ったのが、近隣の大笹集落の名主であった黒岩長左衛門(ちょうざえもん)。
その長左衛門が、復興の手始めとして行ったのは『家族の再編』でした。
生き残った村人93人は皆、家族を亡くしてしまった訳ですが、長左衛門は残った人達だけで『新しい家族』を作ることを提案します。つまり、夫を亡くした妻と妻を亡くした夫を再婚させ、また子を亡くした人には親を亡くした子を養わせるなど、93人全員の家族構成をまとめ直したのです。
もちろんこれには反対もあったと思いますが、『残った者達が互いに血の繋がった一族と思わねばこの大災害は乗り越えられない』という長左衛門の強い決意があったのです。
また更に長左衛門は、ほぼ全ての田畑を失ったこの村の住民達に仕事を与えます。
実はクライマックス噴火の後、鬼押出し溶岩の末端から温泉が湧いたのですが、これを約6km離れた大笹村へと引いて温泉施設を作る大工事を行ったのです。
そしてその作業を行ったのが当時の鎌原の住民たち。
当時の文献には『のべ4063人に対して男には80文、女には72文を支払った』と書かれていますが、この賃金が彼らを飢餓から救った訳です。
強いリーダーシップと経済的な支え、そして住民の一致団結。
これら全てが上手く作用したからこそ、残された93人は誰1人村を離れることなく復興に力を注ぐことができたのです。
残念ながら湧いた温泉は徐々に温度が低下していってしまい、大笹の温泉施設も20年ほどで廃止となってしまいます。
しかし当時彼らが湯を引く為に築いた土塁の跡は今も鎌原の森林の中にひっそりと残っているそうです。
現在、鬼押出しの周辺は観光地として開拓されており、リゾートホテルやペンション、はたまた緑に囲まれた別荘などが立ち並んでいます。しかし、その緑の中を歩いていると何やら怪しげな穴が地中に空いているのも発見できます。
その数は1000個以上。穴の直径は50cmから2m、また深さは3mから7mとかなり大きな穴が群れを成すように空いているのですが、皆さんはこの穴が何かをご存じでしょうか?
この穴の名称は『浅間山熔岩樹型』。
実はこの穴の群れは地質学的に極めて価値の高いものであり、日本の天然記念物の中でも一番ランクの高い”特別”天然記念物に指定されています。
日本には現在1000件を超える天然記念物が存在するのですが、その中で特別天然記念物に指定されているものはわずか75件。如何にこの穴が価値の高い物であるかがお分かりいただけるのではないでしょうか。
しかし、なぜこの穴がそんなに価値があるのか、そしてなぜこんな所に無数の穴が開いているのかというと、それは先ほどお話した天明の大噴火に起源があります。
この噴火の時、火山から流れ出た火砕流は浅間山麓の林に達し、立ち並んでいる木を熱によって次々と燃やしていきました。そしてその熱が冷めた後,時間と共に燃えた木は朽ち果てていき、結果として地中には穴だけが残りました。
まさに地中に生えていた木の根っこの部分が型のように残っていることから”樹型”と呼ばれており、世界的に見ても珍しいものなのです。
ただ通常の火砕流は猛スピードで流れていくものであり、そうであるならば木はなぎ倒されてしまう為、穴は残らないはず。
しかし浅間山の樹型の穴は縦にまっすぐ伸びていることから、木はなぎ倒されずに燃えて行ったことになります。
なぜ火砕流になぎ倒されずに立ったまま燃えていったのか?これは今でも謎であり、火山学者たちの研究対象になっているのです。
現在、この樹型は1つ1つ番号で管理されており、嬬恋村の方々の手によって、穴の中に溜まる土や枯れ葉を除去する活動が定期的に行われています。
そして穴の中では貴重なヒカリゴケが神秘的な光を放っています。
さてこの浅間山ですが、噴火の影響で周辺の土壌には火山灰を含む黒ボク土(くろぼくど)という黒い土が広く分布しています。
実はこの黒ボク土は世界でも1%程度しか分布していない貴重な土です。しかし、昔の人達はこの土を『のぼう土』と呼んでいました。のぼうとは”役立たず”の意味であり、要するに農業には不向きで昔はススキやササなど限られた植物しか育たなかったのです。
しかし戦後、化学肥料などが開発されると黒ボク土の評価は一転。
もともと排水性には優れていたので、この土地一帯を農地として開拓する事業が進められます。
そしてじゃがいもやレタスなど様々な野菜の試験栽培が行われたのですが、この黒ボク土での栽培に最も適していると判断されたある野菜があります。それは何か、皆さんはご存じでしょうか?
正解は・・・キャベツ。
ご存じの通り、浅間山の北側にある嬬恋村は日本有数の夏秋キャベツの産地。
標高700〜1400メートルの高冷地に位置する嬬恋村は夏でも気温が低く、昼夜の寒暖差が大きい為、キャベツが育ちやすい環境ではありました。
そんな中、この一帯の黒ボク土の性質も身の締まったキャベツの栽培に適していることが分かり、日本全体が食糧難で困っていた最中の救世主として、1950年代から本格的な農地開拓政策がスタートしたのです。
その後、昭和40年代には流通網なども整い、キャベツの生産量は飛躍的に拡大。現在では嬬恋村は日本一の夏秋キャベツの生産地となり、1970年から現在に至るまで50年以上連続で夏秋キャベツの生産量日本一を誇っています。また一面に広がるキャベツ畑は嬬恋村の景観の象徴となっている訳です。
ただ上毛かるたが制作された1947年当時、嬬恋ではまだキャベツの生産は行われておらず、残念ながら上毛かるたには登場していません。
しかしこの嬬恋キャベツは、日本有数の活火山である浅間山が人々にもたらした自然の恵みでもある訳です。
現在では多くの観光客が訪れる人気スポットとなっていますが、この場所を最初に観光地として開拓した人物は誰か、皆さんはご存じでしょうか?
正解は、現在の西武グループ創始者である『堤康次郎(つつみやすじろう)』。
康次郎は1889年に滋賀県の農家で生まれました。しかし小さい頃に母を亡くした為、農業の傍らで肥料を売って商売をしていた祖父母に育てられたのです。
そして早稲田大学に入学すると学生の傍らで起業し、造船や郵便、真珠の養殖など当時のあらゆるベンチャービジネスを立ち上げます。
ただこれらは全くと言っていいほど軌道に乗らず、途方に暮れていたのです。
しかし1915年、背水の陣となった堤康次郎は当時外国人が避暑地として集まっている軽井沢に注目し、この場所の観光開発に乗り出します。
そしてその3年後、軽井沢中心部から少し離れた所に別荘地を管理する「千ヶ滝(せんがたき)遊園地株式会社」を設立。
更にここに共同浴場も作る為、群馬の万座温泉から湯を引いて来ようと考えます。
そのためクルマで軽井沢から万座へと向かったのですが、その道中で見たのが、浅間山から噴き出した溶岩が辺り一面に広がっている異様な光景。『ここは観光地になる!』とひらめいた康次郎はすぐさまその土地の購入に動いたのです。
当時としては農業にも住宅地にもできない、ただ溶岩があるだけの何も使い道のない土地でした。その為、かなり安い値段で手に入ったと言われていますが、その場所を康次郎は『鬼押出し』と名付け、そして誰も見向きもしなかったこの場所に価値を見出し、みんなが訪れたくなる場所へと仕立て上げていった訳です。
またこの鬼押出しだけでなく、康次郎は軽井沢プリンスホテルや軽井沢72ゴルフクラブなども建設し、この一帯を国内有数のリゾート地へと成長させていきます。
更に軽井沢だけでなく、康次郎は芦ノ湖や強羅など100万坪の箱根の土地も購入。当時未開発だったこの周辺を軽井沢同様に人気の観光名所にしたのです。
晩年、『人がやらないことをやるのが自分の人生だった』と語った康次郎。彼が作った数々のリゾート施設は100年以上が経過した今も多くの観光客で賑わっています。
KING OF JMK代表理事
渡邉 俊