2023年8月29日放送 - と:利根は坂東一の川


 群馬のど真ん中を流れる一級河川『利根川』。

群馬と新潟の県境付近を水源として南に流れ、伊勢崎市付近から流路を東に変えて千葉県の銚子市で太平洋にそそぐ全長322kmの川です。その長さは国内では信濃川に次いで2番目に長く、また大雨になるとたびたび氾濫する暴れ川として、『坂東太郎』というニックネームで古くから親しまれてきました。

 

 

さて皆様もよくご存じの通り、群馬県にはこの利根川を初めとした大きな河川はあるものの、”海”はありません。

その為、当然のことながら港や大型船も全くないのですが、実はかつての群馬には『港』があり、そこに大型船が多数停泊していたことをご存じでしょうか?

 

 

そもそも古くから日本の川は船で物を運ぶ輸送経路として使われてきました。

そして1603年に徳川家康が江戸幕府を開くと、江戸には多くの人が集まるようになり、食料はもちろん、家を作る材木などが大量に必要となります。その為、日本各地から陸路や海路で物資を運んでいたものの、関東近辺で必要な物を調達し、利根川と江戸川を使って運ぶ方が一度に大量の物を効率よく運べることに人々は気づいたのです。

 

そうなると必要になってくるのが、物資を積み下ろしできる場所。これがいわゆる港であり、川のあちこちに『河岸(かし)』という名前で発展していった訳です。

 

 

 

 

当時の群馬県には、利根川だけでなく烏川や渡良瀬川にも大小様々な河岸があったと言われています。

そして県内で最も大きな河岸だったと言われるのが、現在の高崎市にある『倉賀野河岸』。

 

倉賀野は中仙道の宿場町ですが、烏川と鏑川が合流する場所でもあります。また大型の船が利根川を遡れる最上流の河岸であり、全盛期には76の業者が150隻もの船を停泊させていました。その為、上州のみならず越後や信州からの物資の窓口としても栄え、終日活気に溢れていたのです。

 

 

また、江戸から上州に運ばれてくる物資は塩や砂糖、お茶、油、干し魚などであったのに対し、逆に上州から江戸に運ぶ物資は年貢米や小麦、煙草、木材など。

そして幕末には日本の経済を支えた『生糸』もこの倉賀野から江戸や横浜へと運び、海外へと輸出されていった訳です。

 

 

とはいえ1783年、浅間山の大噴火でたくさんの灰が川底に蓄積したことで大型の船を通すことが難しくなります。そして1884年、鉄道の高崎線が開通したことで倉賀野河岸はその使命を終えたのです。

 

 

現在、倉賀野河岸の跡地にはひっそりと石碑が建っています。かつてはこの倉賀野を初めとした上州の河岸が、約260年に渡って繫栄した徳川幕府の物流を支えていたのです。

 

 

2023年8月29日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊