KING OF JMK代表理事:渡邉 俊は毎週火曜にまえばしラジオ(84.5MHz)M-wave Evening Echoesで"上毛かるたはカタル"というコーナーを担当しており、上毛かるた各札のウンチクを紹介しています。
ここではその原稿をアーカイブとして掲載していますので、上毛かるたの1つ1つの札を深く知りたい方は是非読んでみてください!
群馬と長野の県境にある『碓氷峠』。
中仙道の重要な関所として盗賊の出入りや荷物の往来を監視するなど、箱根峠と共に江戸幕府を守る交通の難所として、当時碓氷峠は「天下の門」と呼ばれていました。
この碓氷峠の往来に人々は苦しんだわけですが、その苦しみは関所が廃止された明治以降も続きました。
それは明治26年に開通した横川~軽井沢間の鉄道計画。
当時、太平洋側と日本海側を結ぶ交通網を整備する為、この碓氷峠に機関車を走らせる計画が持ち上がる訳ですが、実は鉄道というのは斜面を登る事が大の苦手であり、当時の技術者たちはどうやって鉄道で急勾配の碓氷峠を越えればいいのかとても悩みました。
そこで取り入れられたのが、当時ヨーロッパの山岳鉄道で使われていた『アプト式』という方法。機関車のついている歯車と線路側についているラックレールをかみ合わせ、見事横川―軽井沢間を約80分で結んだのです。
現在は廃線となってしまいましたが、その峠越えが如何に大変だったのか、また明治時代に鉄道の技術者たちがどうやって峠の傾斜と戦ったのかは安中市の『碓氷峠鉄道文化むら』の展示物で知ることが出来ます。
しかし、この碓氷峠越えの時間を更に短縮する為、戦後の国鉄は"碓氷峠越えだけ"の為の専用車両の開発に着手します。
その車両の名前は・・・『EF63(イーエフロクサン)』、通称ロクサン。
EF63は客室車両の後ろに連結する電気機関車であり、いわゆる『後ろから車両を押す』為の専用車両。
当時上野から走ってきた全ての下り列車は、横川駅で停車するとEF63を2両連結させ、車両を押してもらいながら峠越えへと向かいます。そして登り切った軽井沢駅でEF63は切り離され、客車は信濃路へと旅立って行きます。まさに碓氷峠越えのスペシャリスト的な車両だった訳です。
そしてその様子はエベレストで登山客のサポートをする人を指す『シェルパ』の様であった事から、EF63は『峠のシェルパ』とも呼ばれました。
とはいえ乗客にとって困るのは、横川駅でEF63を連結する間待っていなければならないこと。
通常の駅の停車時間より5分ほど長く待つ必要があったのですが、その時間を利用して多くの乗客に親しまれたのが、おぎのやが販売していた『峠の釜めし』。
連結作業中、車両のあちらこちらでボックス席の窓が開き、外にいる売り子さんを呼んで釜めしとお茶を購入します。
売り子さんからすれば、たった5分の間にたくさんの釜めしを売りさばかなければならず非常に大変なのですが、この光景がいつしか横川駅の名物となり、『峠の釜めし』は日本一人気の駅弁になって行く訳です。
時代を遡り、この関所ができる前の碓氷峠はどんな場所であったか?というと、飛鳥時代には関西から北関東を抜けて東北地方へと結ぶ東山道が通っており、既に多くの人が行き来していました。
そして同時に、この碓氷峠は『今生の別れの場所』でもあったのです。
実は8世紀頃に作られた日本最古の歌集:万葉集に、碓氷峠に関する歌が2首掲載されています。
『日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は 夫(せ)なのが袖もさやに振らしつ』
『ひなくもり碓氷の坂を越えしだに 妹(いも)が恋しく忘らえぬかも』
1つ目は夫を見送る妻の歌。「日暮れの碓氷峠を上っていく夫が、はっきりと目立つように袖を振っていたのが見えた」という内容。
また2つ目は妻と別れる夫の歌。「碓氷の坂を越えただけであるが、残してきた妻が恋しくて忘れられない」という内容です。
これらの歌は、当時九州地方を防衛する『防人(さきもり)』に任命された男性と、それを見送る女性が詠んだと言われています。
西暦663年、当時日本は朝鮮へと出兵して唐と新羅(しらぎ)の連合軍と戦ったのですが、あえなく敗北。そしてその勢いで唐が日本へと攻めてくるのではないかという緊張が高まり、九州沿岸に防衛部隊の配置が計画されたのです。
しかし既に朝鮮への出兵で西日本の兵力は大打撃を受けていました。
その為、防人として徴兵の対象となったのは東日本の男であり、当時関東から約2000人が九州へ向かったと言われているのです。
防人の任期は3年。しかし当然そこに行く交通手段は"徒歩"のみであり、また旅費はなんと各自で負担しなければなりませんでした。
当時上野の国から奈良の都に行くだけでも約1カ月。その為、行く道中で獣に襲われる人もいれば、無事に任期を終えたとしてもお金がなくて関東に帰ることができず野垂れ死んでしまう人もいました。
まさにこの碓氷峠での別れは、任期があるとはいえ2度と会えないかもしれない今生の別れだった訳です。
この2首の歌、現在は碓氷峠を上っていった見晴台という場所に歌碑が建てられています。
先ほど書いた通り、明治になって『アプト式』の鉄道で碓氷峠を簡単に行き来できるようになりました。
とはいえその所要時間は75分もかかった訳ですが、このゆっくりと峠を上ることがきっかけとなって、日本人の誰もが知っているある歌が生まれます。
それは、"秋の夕日に 照る山紅葉~"で有名な童謡『紅葉』。
この詞を書いたのは明治から昭和にかけて活躍した長野県出身の作詞家:高野辰之。
高野は『紅葉』の他にも
・"うさぎ追いしかの山~"の『故郷』、
・"春が来た 春が来た どこに来た~"の『春が来た』
など多くの童謡を世に送り出したことで知られています。
当時文部省や東京音楽学校の教授をしていた高野は、実家のある長野県中野市と行き来する為に頻繁にアプト式の列車に乗っていました。
その際、横川から軽井沢へと登って行く途中に『熊ノ平駅』という駅があったのですが、ここは碓氷峠の急勾配の中で数少ない平坦な場所。単線であった信越線は、この熊ノ平駅で信州方面から下りてくる列車を待つ必要があったのです。
そしてその待っている時間に高野が目にしたのが、駅周辺に広がる碓氷峠の壮大な紅葉の風景。
この美しい景色に心を惹かれ、この詞を書いたと言われているのです。
そしてその待っている時間に高野が目にしたのが、駅周辺に広がる碓氷峠の壮大な紅葉の風景。
この美しい景色に心を惹かれ、この詞を書いたと言われているのです。
現在では新幹線が開通したことで、安中榛名~軽井沢駅間の所要時間は僅か10分。またそのほとんどがトンネルである為に景色を楽しむことはできません。
当時はゆっくり登って行く単線の列車だったからこそ、この名曲が生まれた訳です。
この熊ノ平駅は1966年に駅としての役目を終え、また1997年には新幹線開通に伴い横川~軽井沢間は廃線となりました。現在、横川駅から旧熊ノ平駅までの約6kmの区間には『アプトの道』という遊歩道が整備されています。
この碓氷の関所から更に北の方に行くと、山奥に1件の温泉宿がぽつんと建っています。
その宿の名は『霧積温泉 金湯館(きんとうかん)』。
この温泉が発見されたのは今から800年くらい前のことであり、江戸時代には関所に近かった為に温泉には入湯手形を持っている者しか入ることはできませんでした。
しかし明治になって関所が廃止されると多くの人が訪れるようになり、一時は温泉宿4軒、別荘60軒が存在する避暑地として栄えたのです。
しかし1910年、ここを流れている霧積川に鉄砲水が発生し、ほとんどの建物が流されてしまいます。
死者41名を出す大惨事となったのですが、この事故によって唯一残ったのが現存している金湯館。
以降この宿は100年以上もの長い間、人里離れた山奥でたった1軒のみで営業を続け、霧積温泉を守り抜いてきたのです。
その為、温泉マニアからは秘境とも言われているのですが、実はこの宿、日本の歴史を語る上で外すことのできないある出来事の現場でもあります。
先程お話した鉄砲水が発生する以前の1888年、ある政治家がこの金湯館を訪れています。
それは日本の初代内閣総理大臣:伊藤博文。
当時霧積温泉は多くの政治家が疲れを癒す場所として知られており、伊藤博文も頻繁に訪れていたと言われています。
しかしこの年、彼は疲れを癒すのではなく、ある仕事をするためにこの霧積温泉へとやってきました。
その仕事とは・・・憲法の草案作成。
当時、政府は欧米諸国に肩を並べる国を目指し、立憲政治の実現を図っていました。
その為、伊藤博文はドイツの憲法を基本とする為にヨーロッパへ渡ってそれを学び、帰国後に天皇を主権とした憲法作りを行ったのです。
その結果、1889年に大日本帝国憲法が発布。そしてその草案を作ったのが霧積温泉金湯館本館の1号室なのです。
そしてその客室は今も存在しており、一般のお客様も普通に宿泊できます。しかし各客室にはトイレや冷蔵庫がなく共同で使用するようになっており、部屋に鍵をかけることもできない本当に昔ながらの宿です。
先ほども書いた通り、江地時代にこの碓氷関所の通過するには『通行手形』が必要でした。
しかし実際にその手形を入手する為には役人に申請して書いてもらう必要があり、もちろん相応の理由が無ければ発行されることはありません。
また発行が許可されたとしても、場合によっては受け取るまでかなり待たなければならない為、中には手形が無いまま通過しようと試みたり、脇道へと迂回して関所を回避したりと、通称『関所破り』と言われる行為が横行しました。
そのため当時の幕府はこの関所破りを厳しく取り締まったのです。
そして当時の関所破りについて分かる場所が、横川駅の近くにある碓氷川の河原にあります。
その場所の名は『磔河原(はりつけがわら)』。
当時関所破りが見つかった者は一旦江戸の奉行所へ送られて取り調べを受け、再び関所のそばへと連れて来られて磔の刑に処せられます。この場所はまさに碓氷の関所を破ろうとした者たちが磔にされた場所なのです。
またこの河原は中仙道からも見渡すことができた為、当時ここを行き交う旅人たちへの見せしめとしてここを処刑の地と決めたとも言われています。
しかし一言で関所破りというと悪人の仕業だと思ってしまいがちですが、実はその大多数は一般庶民が止むに止まれぬ理由で行ったものだったようです。
ある人は危篤の知らせを受けた親に会う為に故郷へと急いでいたり、または家族に結婚を認めてもらえずに家出をした男女であったり。
関所破りは許されない行為であったとはいえ、ここで磔にされた人たちは本当に無念であったと思います。
この磔河原、現在も国道18号線の脇から歩いて下りて行ける道ができており、またその河原にはかつての群馬県知事であった小寺弘之さんが書いた文字が刻まれている供養碑とお地蔵さんが建てられています。
辺りには何もないひっそりと静まり返った場所である為、時には心霊スポットとして扱われてしまうこともあるのですが、当時の悲劇が風化してしまわないようにと地元の人たちが守ってきた場所でもあるのです。
KING OF JMK代表理事
渡邉 俊